Vol.3
山口 明穗
小学校の時、授業の中で、時々英語の話が出た。先生は、昔、世界を回られた人であったので、その経験が話につながったのであろう。話の内容は様々であったが、その時は、英語ではアクセントを間違えると分かってもらえないから、気をつけなければならない、というものであった。
一人の日本人がイギリスを旅行した。誰とは言われなかったが、あるいは、その人は先生ご本人であったのかもしれない。それはさておき、その人は口ンドンで、まず Victoria 駅に行こうとした。道が分からないので、通りがかりの出会った人に聞いた「Where is Victoria?」しかし、その人は首をかしげるだけで何とも言わない。仕方なく別の人に聞いた。「Where is Victoria?」しかし、何度聞いても、前と同じ事である。何と不親切な奴ばかりなんだ。Victoria 駅を知らないなんて、そんなはずはない。きっと東洋人と馬鹿にして相手にしないのだろう。その日本人は、腹立ち紛れに怒鳴った。「Where is Victoria?」。怒りの思いは、自然「to」のところに力がこもっていた。途端に周囲から、多くの声が応じた。「Oh, I know!」
英語のアクセントは、ある箇所を強く発音する「強弱(ストレス)アクセント」である。この Victoria の話では、怒りの思いから言葉に力がこもった。それがたまたま「Victoria」のアクセントになったのである。我々の先生は、この話の後に「だから、英語はアクセントに気を付けないといけない」と言われた。
これに対し、日本語は、ある箇所を高く上げるか、低く下げるかのアクセントになる。英語の「強弱(ストレス)アクセント」に対し、「高低(ピッチ)アクセント」と呼ばれる。例えば「飴」のアクセントは、「あ」を低く発音し、「め」を高くする。「低高」となるアクセントである。「雨」はその反対で、アクセントは「高低」である。この二語ではアクセントが違っており、その違いから、「飴」か「雨」かの区別になる。
Victoria の話では、アクセントが正しくないと意味が通じないと言われたが、日本語の場合アクセントが違ったら正しく通じないかというと、必ずしもそうではない。
「午後から、雨になるそうだから、雨具を忘れないで」という時に、「雨」の部分を「低高」と「飴」のアクセントで言われたとしても、言われた人は、雨具を携帯するに違いない。「あじさい(紫陽花)」には「低高高高」「低高低低」の二種類のアクセントがあるが、「高低低低」のアクセントで「あじさいが咲いた」と言われでも、首をひねるというほどのことはない。
「森さん」という人がいた。この人に呼びかける時に、「森」の名を「高低」「低高」のどちらのアクセントで呼んでも、「はい」と応じてくれる。
東京語と京都語ではアクセントが全く反対になることがある。例えば「箸」と「橋」。東京語では「箸」は「高低」、「橋」は「低高」、京都語では反対である。しかしアクセントの違う二人が会話を交わしていて、意味が通じなくて困ることは一切ない。
日本語は、アクセントが違っていても言葉が通じる。英語と違う点である。英語はアクセントが違うと意味が通じない。日本語はアクセントが違っても意味が通じる。アクセントに気遣うことはなく、それだけで日本語はやさしいといえる。
一般のアクセントに合わない場合でも、日常のコミュニケーションには問題が起こらないと述べた。しかし、上がり下がりのアクセントであるために、歌の曲はアクセントに合わないといけない。 一つの例を示す。戦争中の歌で『空の神兵』という曲があり、次のような歌詞である。「藍より蒼き 大空に 大空に たちまち聞く 百千の 真白き 薔薇の 花模様」。「大空に」は、一般のアクセントは、「低高高低低」となるのであるが、歌の曲では「ドシララソ」と「高低低低低」のアクセントに近くなってしまう。これなどは、望ましくない例といえ、日本語の不便さなのかもしれない。