エッセイ

Vol.4

裏切り者の日々(四)

日暮 雅通

2013.08.06

承前

 前回のラストで、「直接本人に聞いたからといって、絶対的に正しいカタカナ表記ができるとは限らない。同じ発音を聞いても人によって違うカタカナ表記をするのはよくあることで、いまだに意見の分かれる人名・地名がある」と書いた。同じ小説家なのに出版社によって著者名のカタカナ表記が違うケースなど、見かけることも多いと思う。

 では、発音に(原語に)忠実な表記であれば、すべてをそれにすべきかというと、そうもいかないのが難しいところだ。アメリカの地名Californiaは、発音記号どおりなら「キャラフォーニャ」。だが、今さらそんな表記に変えようとする訳者はいないだろう。「正しい」ことと、読者に読みやすい、抵抗感がなく頭に入りやすいということは、時としてせめぎあうことになる。

 ホームズ物語を引き合いに出すのなら、相棒である医師のDr. Watsonがいい例だろう。彼の名字は「ワトソン」ないし「ワトスン」とするのがこれまでの例のほとんどだが(昔は「ワットソン」などという訳もあった)、これも厳密に言うなら――あるいは耳に聞こえるとおりにするなら――「ワッツン」となってしまう。この表記に変えるというのも、やはり無理な話だ。下手をしたらコメディになってしまうし。

 もちろん、原語(発音)第一主義の方々からは、異論があろう。これからでも正しい発音表記をみんなが使っていけば、いつかは定着するはずだと。間違った表記で育ったら、現地の人と話をするときに障害となるのでは、という懸念もあるかもしれない。

 私自身の例でいうと、そうした障害を感じたことはなかった。十代のころ「カリフォルニア」を舞台にしたミステリを読みつつ、イーグルスの“Hotel California”を聴き、その後初めてアメリカ人と話をしたときは「キャリフォーニァ」と発音していた。今の若い世代がどうなのかはわからないが、多くの人が親しんできた「ホームズとワトスン」のコンビを「ホウムズとワッツン」に変える気は、私にはない。そういう意味でもまた、「裏切り者」なのかもしれないが。

 とはいえ、自分の使う表記以外を認めないわけではないということも、急いで付け加えておこう。小説や映画の邦題にしても、多くの日本人が長年親しみ、受け入れてきたと言えるものは残しておきたいが、従来と違う解釈を導入していくことも、また意味があると思うからだ。

 ロシアの作家チェーホフの作品『桜の園』は、ご存じと思う。1903年に書かれ、大正2年(1913年)には日本語訳の戯曲が出ているので、日本人が一世紀のあいだ親しんできた作品ということになる。原題は、英語に直訳すると“Cherry Orchard”。つまり「サクランボの果樹園」であり、英語圏ではそのまま題名に使われてきた。日本の訳者たちも、“桜の花の咲く園”でなく“サクランボや桜桃の果樹園(畑)”であることを認識していたと思うが、百年来の邦題『桜の園』のもつ美しいイメージを尊重してきたのだろう。

 そこへ2011年、邦題を『さくらんぼ畑』とした新訳が出た(堀江新二他訳、群像社)。タイトルについて最終的な決定権をもつのは、たいていの場合は版元だ。朝日新聞の記事(2013年4月16日付)によれば、群像社の社長も当初は、親しまれた邦題を変えて売れなくなることを懸念し、従来のままでいくつもりだった。だが、東日本大震災のあと、新しいことを始めようと決心したのだという。

 確かに、『桜の園』というタイトルだけを見ると、ミザクラの果樹園というイメージは湧かない。恥ずかしながら私も、この作品を未読だった中学生のころは、桜の花の咲きほこる学園における女子学生たちの話だろうか、などと夢想していたものだ。

 その意味でも、読者に正しいイメージを喚起させるタイトルにしたことは、翻訳界にとっての収穫と言えよう。ただ、これによって従来の訳書すべてを否定するような論調には、感心できない。朝日新聞の記事で沼野充義さんが「『桜の園』という象徴的で幻のような題だからこそ国境を超えて受容された」と語っているように、これまでの邦題もまた、存続する意味が十分にあると思うからだ。

 ところで、cherry orchardには「女子大の寮」とか「女子が集まっているところ」という意味もあるのを、ご存じだろうか。チェーホフとは関係なく、「チェリー=処女、乳首」からきている俗語だが、我が中学生時代の夢想も、あながち間違いではなかったのかもしれない。

この項続く



日暮 雅通(ひぐらし まさみち)

1954年千葉市生まれ。青山学院大学理工学部卒。
英米文芸、ノンフィクション、児童書の翻訳家。日本推理作家協会、日本SF作家クラブ会員。

著書:『シャーロッキアン翻訳家 最初の挨拶』(原書房)。訳書:コナン・ドイル『新訳シャーロック・ホームズ全集』(光文社文庫)、ミエヴィル『都市と都市』(ハヤカワ文庫)ヴァン・ダイン『ベンスン殺人事件』(創元推理文庫)、ラインゴールド『新・思考のための道具』(パーソナルメディア)、マクリン『キャプテン・クック 世紀の大航海者』(東洋書林)など多数。

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