Vol.3
川西 蘭
仏教との出会いで漢字の使用量が増えたのは私に限った話ではない。仏教が伝来した当時の人々も経典に使われる漢字の多さに圧倒されたようだ。伝来後、使われる漢字の種類が増加している。
仏教経典は一字一句変えてはならない、というルールを前回紹介したが、これ、ちょっと奇妙なルールだと思いませんか?
そもそも仏教経典は中国で成立したものではない。お釈迦さん(ゴータマ・シッダールタ)はインドの人だ。何語を話されたのか、不明だが、少なくとも漢語ではないだろう。
お釈迦さんは、人々と対話しながら、正道(仏法)へと導いた。使われた言葉は、市井の人々にも受け入れられ易い、平易なものだったとされている。
耳を傾けて法を聞き、自分の頭で考える努力をする人であれば、誰でも解脱できる可能性がある。苦からの解脱を望んでいる人には誰にでもこの法は説かれるべきだ。お釈迦さんの態度はそう語っているようだ。
もう一点、重要なことがある。お釈迦さんは経典を書かなかった。対面での説法だけだ。状況、抱えている問題、性格などが考慮されているオーダーメイドの法話だ。しかも、対話形式だから、疑問や反論があれば、その場で解決できる。
もちろん、デメリットもある。人に合わせて法を説くので、人によって話が変わることがある。ある人にとって最適の方法が別の人にとっては最適とは限らないからだ。実際、経典に記録されたお釈迦さんは正反対のことを平気で言っている。ある人には、怠けてはいけない、眠る時間も惜しんで修行せよ、と説き、別の人には、根をつめすぎてはいけない、余裕をもって修行しなさい、琴の弦だって適度な緩みがなければ、良い音で鳴らないだろう? などと説いている。
お釈迦さんの説法は(そして、縁起の法は)そのようなものだ。
お釈迦さんの入滅後、弟子たちが集まって、生前の説法を確認し整理した。この結集によって確認されたお釈迦さんの説法が、最終的には文字で記録され(初期の弟子たちは暗誦したのだが)経典になっていく。
経典では冒頭に、いつ、どこで、どのような状況で、誰に対して説かれたものかが明示されているが、これは、文脈を示して解釈の混乱を避けようとしたからだと思われる。
さて、話はようやく漢訳経典にたどり着く。インドで編纂された梵字経典はシルクロードを経由して中国に運ばれる。その困難は、たとえば、『西遊記』のような冒険物語にも描かれている。
中国に運ばれた梵字経典はそのままでは読めないから翻訳される。これが漢訳経典だ。この翻訳作業は国家的な大事業で、そのために梵語と漢語に通じ、仏教教義(経・論・律の三蔵)に詳しい人物を主として、何百人もの学僧が集められた。
たとえば、クマラジーヴァ(鳩摩羅什)は西域の出身で複数の言語を解し、仏教理論にも通暁していた。彼は戒律を厳守する清僧だったが、翻訳事業のために無理矢理妻をあてがわれ還俗させられた。
私は破戒し、世俗の汚濁に塗れてしまったが、経典は泥沼に咲く蓮華のように清浄である、とクマラジーヴァはわが身を嘆きつつ、経典を称えたという。私を嫌いになってもいいけれど、仏法は嫌いにならないでください、といったところか。
漢訳には複数種類があるが、鳩摩羅什訳と玄奘訳が有名だ。玄奘三蔵は『西遊記』のモデルでもある。翻訳には、当然、翻訳者の解釈が反映される。というわけで、鳩摩羅什訳と玄奘訳とでは異同がある。
あれ? 「一字一句変えてはならない」という決まりはどうなったのだろう?
どうなったのでしょうね。「一字一句変えてはならない」というルールは、漢訳経典に対して適用されるもののようだ。だって、サンスクリット語の経典を一字一句変えなかったら、翻訳なんかできないですもの。
漢訳には漢訳のルールがあり、たとえば、訳さない語句なども決められている。訳さないので、音を漢字で表す。音写だ。
般若心経の最後の「ギャーティギャーティ」の部分など、意味よりも音(響き)が重視されるマントラ(真言)や陀羅尼(呪文)は訳さない(不翻)。しかし、梵語を漢字で表記するので「訛る」のは避けられない。
経典には偈(詩)が多出する。リフレインも多い。これは暗誦のためだろう。詩の形式は暗記しやすい。かつての僧は偈を口ずさみながら砂漠を旅したのだ。
偈を訳す場合には、詩の形式に整形される。ここでも意味よりも形式(韻)が優先される(だろう)。
では、なぜ、「一字一句変えてはいけない」というルールが、日本で徹底されることになったのだろうか?
私にはよくわからない。が、漢訳経典の権威の高さと漢文の和訳が独特の方式で行われたことに関係しているように思われる。
漢文の和文訳について、次回考えてみたい。
早稲田大学(政治経済学部)在学中『春一番が吹くまで』で作家デビュー。以後、映画化された『パイレーツによろしく』など話題作多数発表。近作に、自転車ロードレースに熱中する少年たちを描いた『セカンドウィンド 』シリーズがあり、第三部まで既刊。来春、第四部(最終巻)を刊行予定。『坊主のぼやき』など仏教関係の著作もある。浄土真宗本願寺派僧侶。東北芸術工科大学文芸学科教授。