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エッセイ

Vol.5

ごく短い回想録・漢字とのつきあい(五)

川西 蘭

2014.02.12

 漢文の訓み下しを解釈に利用するのは、親鸞の専売特許ではない。

 たとえば、道元は『正法眼蔵』で「一切衆生 悉有仏性」を通常の「一切の衆生は、悉く仏性を有す」とは読まず、「一切衆生は悉有なり、(悉有は)仏性なり」と訓んでいる。

 道元の訓み方は、道元の禅が要請するものだ。こう訓まなければならないのである。単に、仏性の有無を論じることを拒否するためだけではない。悉有は仏性なり、と言い切ることが道元の禅(法門)にとっては必要なのだ。仏性についての議論や逸話は禅の書物にもさまざまに書かれている。狗の仏性の有無を問うもの、議論のための議論に愛想を尽かす老師、仏性を巡る話は味わい深い。仏性をどう捉えるかは、法門にとって重要な問題だ。ここを読み誤ると、法門全体を誤解することにもなりかねない。

 親鸞の法門にとっては、「如来回向の信(=名号)」が要だ。ここを誤解すると、法門の体系をつかまえ損ねる。

 他力浄土門では、凡夫側に仏性の有無は問われない。すべてが名号に込められて、如来から回向される。如来回向の信を獲得しさえすれば、仏性がある(はたらく)のだ。


 話を戻そう。

 『教行信証』は漢文で書かれている、と長年、思っていたが、実際には、訓読という翻訳技術を駆使した、漢字だけでつづられた和文だったのだ。その発見が私には新鮮だった。

 道元と親鸞の著作は、テキストについて考えさせてくれる。

 『教行信証』はインターテクストの迷宮だ。引用元に遡及するようにできている。テクストが幾重にもからまった網のように複雑に結びつけられ、意味は横滑りし、新しい世界が紡ぎ出されていく。

 道元のテクストも独特だ。

 通常の訓読なら開いて読むところを漢語のまま術語のように一塊にして読んでしまう。そうすることで漢文の規範とも和文の規範とも異なる文脈で意味を立ち上がらせていく。

 文から意味が立ち上がった次の瞬間、語が術語にくくられ、文は再構成される。同時に意味が変化する。増幅、横滑り、あるいは否定。文章は、意味ではなく音を強く意識させるようにリズミカルにつづられる。文は次々と解体と再構成を繰り返し、連鎖反応によって意味は動き続ける。決して固定されない。線形に読んでいくしかない文の制約を巧みに利用して、意味の固定を拒否するテクストを作り出している。

 意味の固定は、つまり、縁起の否定に通じる。つかまえた、と思った瞬間に消えるのが、真如だ。真如は縁起の運動にこそある。

 道元は仏教の真髄をテクストで具現している。読み手はテクストと共同作業を行うことで、縁起を身体的に体験するのだ。

 こんな文章を書ける仏教者は、現在でも多くはいないだろう。

 道元と親鸞は同時代の人だ。彼らが学んだ比叡山には、書物の読解に関する膨大な研究の蓄積と優れた指導者がいたに違いない。鎌倉新仏教の始祖方以外にも、たくさんの学僧がいて日夜研鑽を続けていた、と想像をすると、体の芯が少し熱くなる。学生がくしょうたちの恩恵を自分がいま受けている。のんびりしていてはいけない。自分も学ばなければならない。言葉の呪縛から逃れて、しかも、言葉で法を伝えるのだ……。


 言葉と意味の関係については、部派仏教のアビダルマの時代から検討されている。龍樹の中観派は言葉と意味の空性を語り(意味の生成を縁起として語り)、世親の唯識派は言葉と社会規範の関係を識の性質として語る。

 私が言葉について整理して考えるようになったのは、仏教がきっかけだ。それまでは、「どうにかしてうまく小説を書きたい」という思いばかりで、勘を頼りに経験的に得た技法を使っていた。言語の機能や社会規範の無意識への浸透にはなんの関心もなかった。

 言葉に対して非常に愚鈍だったわけだ。

 仏教は智慧を目覚めさせる教えでもある。光がなければ、闇の深さもわからない。闇にいた私は呑気だった。それに不都合を感じていたわけではなかったが、光に照らされて、闇を見た以上、以前と同様の呑気さには浸っていられない。迷妄を脱するべく地道な努力を続けるしかない。

 とは言え、智慧が一朝一夕に身につくわけではない。

 愚鈍さと折り合いをつけるのがせいぜいだ。


 というわけで、経典や論書を読むようになり、パソコンでテキストを管理するようになると、自然に漢字の使用数は増える。自分では絶対に使わない漢字も、経典が要求するので使わざるを得ない。諸師よきひとが守ったルールを私も守りたいのだ。

 一字一句変えてはならない。

 読めない漢字を「絵」として眺めつつ、『超漢字』の文字検索を灯明に、無明の闇と迷宮のような漢字の森を今も彷徨い歩いている。

(了)



川西 蘭(かわにし らん)

早稲田大学(政治経済学部)在学中『春一番が吹くまで』で作家デビュー。以後、映画化された『パイレーツによろしく』など話題作多数発表。近作に、自転車ロードレースに熱中する少年たちを描いた『セカンドウィンド 』シリーズがあり、第三部まで既刊。来春、第四部(最終巻)を刊行予定。『坊主のぼやき』など仏教関係の著作もある。浄土真宗本願寺派僧侶。東北芸術工科大学文芸学科教授。

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