エッセイ

Vol.4

短歌と日本語(四)

大谷 雅彦

2014.04.08

 短歌を学ぶ「場」としての歌会についてあれこれ思いつくまま書いてきたが、歌会は決められた会場で開催されるのがふつうである。それとは別に、短歌や俳句の世界では、吟行(ぎんこう)という催しがときおり開催される。歌枕(古歌に登場する各地の名所)などの風光明媚な場所に臨時に出かけて行って、その場で短歌や俳句を作るのである。短歌では即詠、俳句では即吟と言い習わしている。実際には現地ですぐに短歌や俳句ができる人ばかりでもないので、宿泊を伴う場合は宿に帰ってから、日帰りの場合は後日、作品を提出することが多い。また、比較的少人数の場合は、吟行のあとに一首か二首の作品を作って、現地で会場を用意しておいて歌会を開くという場合もある。最近は何種類もの辞書が一つにまとまった電子辞書があるので、それを持ってきてきちんとした作品に仕上げようという人も珍しくない。

 風景ばかりが短歌作品の題材ではないのだが、定例の歌会の会場から離れて日常とは異なる風景のなかに身を置いてみることで、創作に何らかの刺激が得られるのを期待し、あるいは吟行という小さな旅を通じて参加者どうしの親睦をはかろうというのである。

 古典和歌の時代では、気軽に各地の名所に出かけることはできなかったので、先人が歌い遺した名所に想いを馳せて、自分の作品を創作することが多かった。参考にした先人の和歌にしても、実際に現地には赴いていない場合が多かったわけだが、実際に行ったかどうかは、歌の評価にはほとんど影響しなかったのである。いかにも見てきたように人々を唸らせる歌が詠めるかどうかが、歌人の腕の見せどころであった。

 平安時代や鎌倉時代に、東北地方にまで足を伸ばすということは都人には思いもよらなかったのだが、あえて彼の地に赴いた貴人がいた。百人一首の「かくとだにえやは伊吹のさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを」の作者、藤原実方朝臣である。一条天皇の時代、藤原行成と歌をめぐって争いになり、天皇より「歌枕見て参れ」と陸奥守に左遷されたと伝わる。自ら望んで東北の地に赴いたという説もあるのだが、ともかく国府の置かれていた多賀城周辺の歌枕を実際に訪ね歩いたらしい。笠嶋道祖神社の前を通るとき地元の人の諫めの言葉に従わず馬から下りないでそのまま通過しようとして落馬したのが元で一命を落としたと言われている。このように実際に足跡を残した歌人は稀であったが、この実方朝臣を偲び、墓所を訪ねた歌人がいた。西行法師である。また、江戸時代になって、松尾芭蕉も「奥の細道」の旅の途中で実方朝臣の墓に詣でようとした。

 こうなってくると、「歌枕=古歌に詠まれた名所」というだけでは捉えきれなくなる。短歌や俳句の材料の一つとして地名が取り上げられるのにとどまらず、彼の地を実際に歩いた一人の人間がいたこと、さらに彼の足跡を訪ねて後の世に何人もの文人が彼の地を訪れたこと……「言霊(ことだま)」と言ってしまえばそれまでなのだが、ひとつの言葉が私たちに何らかの作用を及ぼしているのではないかと、ふと感じるのである。

 この藤原実方朝臣の東北下向は、千年の昔である。それから千年の間、短歌は五七五七七、五句三十一音の定型をずっと守り通してきた。途中から五七五という十七文字の俳句(大雑把にまとめて俳句と表記する)が岐れたのだが、短歌形式が消えることはなく、明治・大正・昭和の時代を経て、平成の今日まで連綿とつづいているのである。

 漢字(万葉仮名を含む)のみで日本語を表記してきた万葉集の時代のあと、仮名文字を併用するとともに楷書体から草書体までおなじ漢字でも書体を自由に組み合わせたり、あるいは文字の配置すらも自由に塩梅して、たんに和歌を書き記すだけでなく「表現」するレベルにまで高めてきた古典和歌の時代となって、日本語は独自の表記(表現)方法を獲得したと言えよう。

 だが、明治時代になって鎖国が終わり欧米のさまざまなものが日本に流れ込んできたとき、伝統を守りつづけていた短歌形式も少なからず影響を受けた。漢字仮名混じりで書かずにローマ字で短歌を書き記してはどうかという試みも行われ、歌集『NAKIWARAI』(土岐善麿著)などが刊行された。また、五七五七七の五つの句切れにこだわる必要はなく、全体として一首が約三十一音にまとまればそれでよいのではないかという自由律短歌なるものも作られた。しかし、これらの新しい試みは主流になることはなく、いつのまにか伝統的な形式だけが残ったのだった。耳で聴く分には漢字仮名混じりでもローマ字でもそれほど差はないかもしれないが、文字に書き表すとまったく異なる。漢字や変体仮名の視覚的効果は抜群で、三十一個の音のほかにさまざまな風景が背後に広がっているのを感じることができるのである。

 ただ、仮名遣いについては、歴史的仮名遣い(旧仮名遣い)から現代仮名遣い(新仮名遣い)への移行がかなり進んでいるのを強く感じる。仮名遣いの問題は、文語体と口語体の問題でもある。結社で毎月発行している短歌の雑誌には、旧仮名と新仮名の双方が混じっていて、読みにくいといえば読みにくいのであるが、どの結社でもごく当たり前に併存させている。印刷時の校正ではかなり苦労しているのではないだろうか。会員ごとに仮名遣いは統一するようにルール化している結社がほとんどだと思われるが、一人につき三首ほどしか掲載されない場合は旧仮名なのか新仮名なのか判然としないこともある。ふだんの文章は新仮名遣いで書いているので、短歌のときだけ旧仮名遣いでいこうとすると、やはり書きまちがいが起こるのである。旧仮名で書きたかったのにまちがって新仮名になってしまったのか、あるいはもともと新仮名で書きたかったのか、作者自身も気がつかない場合もある。「思う」と「思ふ」ではかなり印象がちがう。「くれない」よりも「くれなゐ」のほうが作品の世界がぐっと深くなる場合もあるし、逆に、新仮名のほうが一首に軽妙な味が出てくることもある。

 文語体と口語体のちがいにより、短歌作品の「文体」が異なってくる。短歌という短い文字数の詩型に文体というものがあるのだろうかと思われるかもしれないが、これはたしかに存在する。

この項続く



大谷 雅彦(おおたに まさひこ)

1958年兵庫県生まれ。歌人。

立命館大学卒業。1976年「角川短歌賞」を受賞。歌集『白き路』(1995年)、『一期一会』(2009年)。


※写真:熱帯睡蓮のなかで世界最大の品種「ニンファエア・ギガンテア」。写真は、大谷氏よりご提供いただいたものです。

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