Vol.5
大岡 玲
『長恨歌』や『遊仙窟』の「恋」の味わいに酔いしれた、われらがご先祖さまたち。そんな彼らは、では、実際にはどんなやり方で大陸の文学を読んでいたのだろうか。
まず考えられるのは、現代でも語学が得意な人がやる方式、すなわち原文を外国語のまま翻訳せず読むというもの。実際、飛鳥・奈良時代から平安朝の初期までは、渡来人からきちんと教わったり、遣隋使・遣唐使として現地に渡ったりした教養ある宮廷人なら、楽々とそうできただろう。音読する場合でも、外国語として発音したにちがいない。
とはいうものの、だれもがそういう能力に長けているわけではない。しかも、平安時代の中頃には遣唐使が廃止され、朝鮮半島からの渡来者もほとんどいなくなる。その過程で、漢文を外国語として読む習慣がすたれていき、その代わりに「漢文訓読」という翻訳、いや、独特の解釈法が行き渡るようになった。漢文が輸入されはじめた古代にすでに存在したらしいこの方法が、広く用いられるようになったのは、九世紀になってからのことだ。
この「漢文訓読」をさらりと翻訳と書かずに「独特の解釈法」などともったいぶったのは、漢文を語順はそのままに、返り点だの送り仮名だのを付け日本語の語順にむりやり変えるやり口が、いわゆる翻訳とはかなり異なっているからなのである。この返り点、高校時代漢文を学んだ人、そしてセンター試験を受けて四苦八苦した人の中には、恨みがある向きもけっこういらっしゃるのではないか。
あだしごとはさておき、「漢文訓読」の「独特さ」についてもう少しくわしく述べておく必要があるだろう。といっても、例によって浅学な小生のこと、この道の碩学にすっかり寄りかかってのご説明だ。その碩学は、高島俊男さん。高島さんの有名なシリーズ・コラム『お言葉ですが・・・』の別巻四『ことばと文字と文章と』(連合出版刊)には、こんなことが書いてある。
「日本人は(奈良・平安初期までは別として)漢語の文章を原文通りに読むことはできないので、初めから日本語に逐語訳して読んだ。日本人が『漢文』と言う時には、この逐語訳のことを指していた。いまそれを『漢文訓読』と呼んでいる。それを日本語の順序に書いたものを『
高島さんは「逐語訳」と書いているが、初めから日本語にしているのに「英文」と呼ぶとはこれ如何に、と感じる私としては、訳ではなくて解釈法だろう、とひねくれて書きたくなるのである。いずれにせよ、こんな奇妙な話はない。「子曰学而時習之不亦説乎」という原文(つまり、漢文だ)に符号をつけ、まずは「子曰ク学ビテ而時ニ習フ(レ点)之ヲ 不(二点、つまり一点の符号のあとに読む)亦タ説(一点)バシカラ乎」と書く。
このままでもいいのだが、さらに書き下し文で「
中国語である漢字の本来の読みを無視して、その意味内容に当たる訓を直接漢字自体の新しい読み方にしてしまう。そうすることによって、外国語としての漢文に熟達していない人間にもなんとか読める形にする。このやり方は、いうまでもなく、わが国の専売特許だったわけではない。中国文明の影響と恩恵を受けた他のアジアの国々でも同様の試みはなされている。
ただ、日本ではこの漢文訓読がやがてヤマト言葉と絡み合いながら、和漢混交文(これはもう、立派な日本語だ)を生みだし、明治期には普通文、いわゆる文語文の基礎になり、さらに現在私たちが日常使用している漢字かな交じり文になったわけで、漢文にここまでの深甚な影響を受けた文章語を持つ言語はほかには見当たらない。
高島さんが挙げている例をもうひとつ紹介してみよう。「やまへきをきりにいった」というのは、立派な現代の言葉だ。ルビで訓をふらずに漢字かな交じり文で書くと、「山へ木を切りに行った」となる。しかし、これをすでに引用した英語になぞらえる高島さん方式で考えると、「mountainへtreeをcutりにgoった」ということと同じという話になるのだ。つまり、タレントのルー大柴さんの喋りは、あれは漢文訓読を転用した教養あふれる話法だったということになる。
ともあれ、われらのご先祖は外国語である漢文を、二通りに枝分かれさせたのだ。ひとつは、奈良平安期に修得した外国語としての漢文を熟成させた「日本漢文」、そしてもうひとつは漢字とヤマト言葉のアマルガムである和漢混交文。この和漢混交文がなかったなら、平安以降の日本文学はまったく今とは異なる姿になっていたのはまちがいないのである。
(この項続く)
1958年東京都生まれ。東京経済大学教授(日本文学)・作家
東京外国語大学大学院ロマンス系言語学科修了。89年『黄昏のストーム・シーディング』で三島賞、90年『表層生活』で芥川賞を受賞。書評やエッセイ、イタリア語を中心とした翻訳も手がける。近著に『本に訊け!』(光文社)、『文豪たちの釣旅』(フライの雑誌社)など。文芸誌『こころ』(平凡社)で、2013年4月から連作短篇の連載を開始。