Vol.9
大岡 玲
漢文訓読という独特の「翻訳方式」については、この連載の第五回で触れた。ここから、漢字仮名交じり文が生まれ、さらにそれが『平家物語』のような文学的成熟を経て、徐々に日本語の本流にむけてのボリュームをふくらましていったというのが、歴史的経緯だった。
その流れと同調するように、漢文自体は、遣唐使が廃止されて以後、断続的に中国本土と貿易などの交流がありながらも徐々に関係性が希薄になっていく流れの中で、変質していった。いわゆる「変態漢文」、もとへ「変体漢文」がそれで、要するに日本語の文法に侵された「和化漢文」へと変貌していったのである。
すでに『古事記』の段階で、この「変体漢文」は芽吹いていたのだが、やがて鎌倉期になると、はっきり独自の進化を見せるようになる。その頃の歴史書『吾妻鏡』や、武家の法令として定められた『御成敗式目』の文章を見れば、それらが一見「漢文」で書かれながら、実は本来の漢文文法から大きく逸脱していることは一目瞭然だ。
こうした傾向が続いていけば、やがて外国語としての漢文は、和漢混淆文のうちにゆるやかに吸収されていって、飛鳥・奈良時代から長く続いたダブルデッカーも、江戸の初期あたりには普通の一階建てバスへと変わったかもしれない。昭和も戦後になってようやく日本語は単層構造になったのだが、それより三百年以上前に、私たちが現在使っているような漢字仮名交じり文のみの書き言葉が定着していた可能性もあったのだ。
これは、和文と漢文の併存を説明する際に例としてよく挙げられる、ラテン語とゲルマン系やアングロサクソン系の言語の歴史に類似するということでもあるだろう。ラテン語に起源を持つロマンス系の言語、すなわちイタリア語、フランス語、スペイン語、ルーマニア語といった言葉は、俗化したラテン語という面を今日でもはっきり感じさせるが、英語やドイツ語はそうではない。
ローマ帝国の支配下・影響下にあった時代以降、そして中世期にラテン語が学問的共通語であった時代を経て、それらの言葉がラテン語をみずからの内側に溶かしこんでいった過程は、そのまま日本の言葉に起こってもおかしくはなかった。
もちろん、ラテン語と英語やドイツ語の言語構造・文法構造のへだたりは、ヤマトの言葉と漢文のそれよりは、はるかに近接するものであるのはいうまでもない。むしろ実際には起こらなかった、たとえばラテン語とトルコ語の融合、といったような事柄を思い浮かべるべきなのかもしれないが。
ともあれ、そうした融合が江戸期よりも前に生じていれば、日本の言文一致はヨーロッパの近代言語と同程度にはスムーズかつ自然に達成されていたかもしれない。書き言葉に話し言葉が寄り添う成熟が、じっくり進行する筋道がありえたからである。
しかし、そうはならなかった。その大きな要因は、学問的な裏づけがあるのでもなんでもない私の個人的見解だが、徳川家康のせい、いや、おかげなのである。彼が林羅山に幕府の文教政策を統括させ、羅山の専門である朱子学を武士の教養の中心に据えたことによって、「漢文」は「ルネッサンス」したのだ、というのが私の考えだ。
足利義満は、当時の中国王朝である明の冊封体制に日本を組み入れる身ぶりをすることによって、天皇の権威を乗っとろうと試みたし、豊臣秀吉はそれとは反対に、朝鮮半島への武力行使によって、冊封関係の逆転とみずからの帝王としての権威の確立をもくろんだ。ところが、家康は「権威の確立」「幕府(王権)の正統性」「(家臣が持つべき)忠誠の美徳」を、儒教という学問によって打ち立てようとしたのである。まさに文明的な政治判断というほかない。
この家康による儒教の「国教化」は、やがて「漢学」という体系に至ったわけで、こうなるといっぱしの教養人を自負するなら、漢文に習熟するのが当然という機運がわきあがるのは当然のなりゆきだ。それが、江戸期の「漢学・漢文ルネサンス」なのである。そして、そのもっとも先鋭なあらわれは、荻生徂徠の創始した儒教の古文辞学だろう。
徂徠は、林羅山以来「国教化」した朱子学の古典解釈法を批判し、儒教の本質をつかむには秦漢期以前の原文をそのまま読まなければダメだ、という当時としてはきわめて過激な主張をした。これはそのまま漢文訓読法への攻撃であり、言い方を変えれば、翻訳で読んでわかったフリをするなんて、学者の風上にもおけないという、いやもう、語学劣等生(ハイ、それはワタシです)には、そんなキビシイこと言うの、やめて~、と叫びたくなる態度なのだ。
まあ、たしかに徂徠の主張には一理も二理もあって、漢文訓読には同訓異義の用字が多すぎる。現在でも、たとえば「みた」というひらがなを、それこそ「みた」だけでは、それにあたる漢字が「見た」でよいのか、実のところはわからない。「見た」以外にも、「観た」「視た」「診た」「看た」という風に同音の漢字がいくつも出現する。これは、日本語の音韻の数が中国語のそれにくらべてはるかに少ないことに起因する現象だが、こうなるとそれぞれの漢字が持っている微妙な差異がわからなくなってしまう。
もちろん、当時の漢学者で彼ほど過激な思考・志向を体現した人物はそれほどいなかったはずだが、それでも、彼が中心となった唐話学習ブームは江戸期の文学に多大な影響を与えた。中国の白話小説の翻訳(徂徠は翻訳不可能論者だったわけだが)の影響下に、すぐれた
白話は、それこそ当時の中国における言文一致文体といっていいもので、従来の漢文訓読法では「翻訳」できない。そして、そうした白話を駆使した小説の代表選手が『三国志演義』や『水滸伝』だったのである。上田秋成の『雨月物語』や曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』などは、そうした白話小説の翻訳があったからこそ存在しえた作品だった。つまり、徳川家康は、日本語のダブルデッカーを保存・強化した中興の祖であり、かつまた、日本文学にとって一種の恩人といえるのである。これって、ちょっと面白い視点だと思うのだが、どうでしょう?
(この項続く)
1958年東京都生まれ。東京経済大学教授(日本文学)・作家
東京外国語大学大学院ロマンス系言語学科修了。89年『黄昏のストーム・シーディング』で三島賞、90年『表層生活』で芥川賞を受賞。書評やエッセイ、イタリア語を中心とした翻訳も手がける。近著に『本に訊け!』(光文社)、『文豪たちの釣旅』(フライの雑誌社)など。文芸誌『こころ』(平凡社)で、2013年4月から連作短篇の連載を開始。