Vol.3
このコーナーでは、はるこ先生が漢字にまつわるさまざまな話題を皆様にご紹介します。
新年明けましておめでとうございます!
皆様、年末年始はいかがお過ごしでしたか?
2013年の大河ドラマは、幕末から昭和初期にかけて激動の時代を生きた女性、新島(山本)八重が主人公です。
そこで、今回はその大河ドラマの舞台、八重が生まれ育った会津地方に足を運んでみました。
《鶴ヶ城歴代城主の家紋》
戦国時代、会津地方は葦名家の領国でしたが、1589年(天正17年)に摺上原の戦いで伊達政宗に破れ、滅亡します。その後豊臣秀吉により、蒲生氏郷が入城すると、7層の天守閣「鶴ヶ城」を設けて城下町の基盤を作り、当時の地名「黒川」を「若松」に改めます。
上杉家、蒲生家、加藤家の支配ののち、1643年(寛永20年)に保科正之が入封し、以後、会津松平家が会津藩を支配します。家紋は会津葵を用い、旗印は漢字1文字で「會」としました。
ところで、この「會」は会津の「会」の旧字体ですが、実際の藩旗を見ると、真ん中の縦棒が突き出た「」の字形になっていることがわかります。
《会津藩の藩旗のイメージ》
※残念ながら鶴ヶ城内の展示物は撮影不可だったため、イラストでご容赦ください。本物をご覧になりたい方は、ぜひ会津に足を運んでくださいね!
新島八重は、1845年(弘化2年)に、会津藩砲術師範の父 山本権八と、母 佐久の娘として誕生しました。幼い頃から男まさりな性格で、17歳年上の兄 山本覚馬から砲術を習い、武芸に励みました。
1868年(慶応4年)に戊辰戦争が開戦。1月3日の鳥羽・伏見の戦いで兄 覚馬は薩摩藩に幽閉され、弟 三郎は負傷して江戸で息を引き取ると、八重は弟の形見の装束を身にまとい、男性の兵に混ざってスペンサー銃を持ち戦列に加わりました。8月23日から1ヶ月にわたる籠城のすえ、9月22日に会津藩は降伏します。翌年の五稜郭開城をもって戊辰戦争は終結し、世の中は西洋化へと動き出します。
1871年(明治4年)、八重は兄 覚馬をたよって京都に移住し、現在の高等学校にあたる「女紅場」で女性教育者として活躍します。また、この地で新島襄と出会い、同志社英学校(現在の同志社大学)の設立に尽力します。なお、八重と襄の結婚式は京都で最初のキリスト教式の結婚式だったといわれています。
男女平等を強く願っていた八重と、長いアメリカ生活でレディーファーストが身についた襄との夫婦生活は、まだ封建的な考え方が残っていた明治時代には大変個性的に見えたようですが、襄は八重のことを「ハンサムウーマン」と称して愛したといいます。
1890年(明治23年)に夫 襄が47歳で早すぎる死を迎えると、八重は日本赤十字社の社員となり、社会奉仕に情熱を注ぎました。日清戦争、日露戦争では篤志看護婦として従軍し、傷病兵の看護だけでなく、看護婦の地位向上にも努めました。
晩年は女学校の生徒に茶道を教えるなど穏やかにすごし、昭和7年6月14日に86歳で永眠しました。
《鶴ヶ城外観》
鶴ヶ城(別名「若松城」)は1593年(文禄2年)に竣工されました。天守閣は戊辰戦争のあとに取り壊されましたが、1965年(昭和40年)に再建され、現在は郷土博物館として公開されています。
天守閣の各層で会津の歴史を学べるほか、石垣の内部には塩蔵の様子が再現されています。また、最上段からは会津の四季折々の景色を展望できます。
《塩蔵》
蒲生氏郷は茶人としても知られ、千利休の高弟「利休七哲」にも数えられています。
敷地内の茶室「麟閣」は1990年(平成2年)に現在の場所に移築復元され、福島県指定重要文化財に指定されています。
《天守閣から「麟閣」を望む》
⇒ 会津若松市観光公社|鶴ヶ城 会津若松城 御薬園 松平家廟所| 悠久の時を超え、幕末の天守閣が今よみがえる
戊辰戦争の悲劇、白虎隊が命を落とした飯盛山へ向かいます。→ Vol.4
「会」の異体字は、本文で紹介した「會」や「」のほかにも、以下のような字形があります。
ぜひ超漢字検索で調べてみてください。
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