Vol.5
このコーナーでは、はるこ先生が漢字にまつわるさまざまな話題を皆様にご紹介します。
会津若松市を後にして、向かったところは隣町の会津美里町。
実は会津地方の由来は「古事記」にも登場しているのです。
↓↓前回までの旅の様子はこちら↓↓
「ハンサムウーマン」ゆかりの地、会津の旅 (1)
「ハンサムウーマン」ゆかりの地、会津の旅 (2)
「古事記(こじき)」は8世紀はじめに成立した、現存する日本最古の文学的史書です。古代から語り継がれてきた神話や伝説を、天武天皇が稗田阿礼(ひえだのあれ)に命じて詠み習わせ、それを元明天皇が太安万侶(おおのやすまろ)に書きとめさせました。序文と上巻、中巻、下巻の三巻から構成されます。
さて、その「古事記」中巻 崇神天皇記には、以下のような伝説が記されています。
“大毘古命(オオビコノミコト)は、先の命令にしたがい、高志国(こしのくに。現在の北陸地方)に向かいました。すると東方(現在の東海地方)に遣わされていた建沼河別命(タケヌナカワワケノミコト)と、その父の大毘古が、ともに相津(あいづ)で行き会いました。そこでその地を「相津」というようになったのです。そうしてそれぞれが遣わされた国を平定して報告に戻りました。そして天下は安らぎ、人民は富み栄えました。 ”
つまり、この「相津」こそが「会津」という地名の由来といわれています。
さて、大毘古命と建沼河別命の父子は会津での再会を喜び、国土開拓の神様である伊邪那岐命(イザナキノミコト)、伊邪那美命(イザナミノミコト)の二神を新潟県境の御神楽岳(みかぐらだけ)山頂に祀りました。それが会津美里町にある伊佐須美(いさすみ)神社の起源といわれています。
伊佐須美神社は、博士山、明神ヶ岳に移転したのち、552年(欽明天皇13年)に現在の会津美里町に遷座し、その際に、大毘古命、建沼河別命の父子も合祀されています。
それから1500年もの間、会津の人々を見守ってきた、大変歴史のある神社なのです。
《伊佐須美神社の由緒》
残念ながら、本殿や神楽殿などは2008年の火事で焼失してしまったそうです。現在は仮本殿が建てられています。
敷地内には再建のための御用材の欅が搬入されていました。今後、立派な本殿が再建される予定とのことで、完成が待ち望まれます。
《御用材の欅》
《伊佐須美神社の楼門》
神社には、国重要文化財「朱漆金銅装神輿」や県重要文化財「木造狛犬一対」が保管されています。
境内は悠久の歴史を偲ばせるような、厳かな空気につつまれていました。
《伊佐須美神社の仮本殿》
4月には薄墨桜、6月から7月には東北一のあやめ苑も楽しめるようです。
ぜひ、花の季節に再訪したいですね!
古事記は712年、元明天皇の時代に完成したと伝えられていますが、原本は現存せず、いくつかの写本が伝わるのみです。
天武天皇の命で稗田阿礼が暗誦していた『帝紀』(天皇の系譜)と『旧辞』(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂したものといわれています。
上巻は天地創造から始まり、伊邪那岐命(イザナキノミコト)・伊邪那美命(イザナミノミコト)による国生み神話、天照大御神(アマテラスオオミカミ)による高天原(天上国家)の成立、須佐之男命(スサノヲノミコト)の八岐大蛇(やまたのおろち)退治、大国主命(オオクニヌシノミコト)と稲羽素兎(いなばのしろうさぎ)、ニニギノミコトの天孫降臨など、現代にも伝わる数々の神話や伝説が収められています。
中巻と下巻は日本の初代天皇とされる神武天皇以降推古天皇までの系譜を中心に物語がつづられています。
原文は変則的な漢文と万葉仮名で記されています。
たとえば、会津の由来の部分は、以下のように書かれています。
“故、大毘古命者、隨先命而、罷行高志國。爾自東方所遣建沼河別與其父大毘古共、往遇于相津。故、其地謂相津也。是以各和平所遣之國政而覆奏。爾天下太平、人民富榮。” (「古事記 中卷 崇神天皇記」より抜粋)
古事記は歴史書であると同時に、物語的要素も多く、本文に挿入された多くの歌謡にも文学的価値を見出せる、貴重な資料のひとつです。