Vol.12
このコーナーでは、はるこ先生が漢字にまつわるさまざまな話題を皆様にご紹介します。
前回の探検隊で、中国では皇帝の
今回は、日本の諱の習慣についてご紹介します。
遣唐使などにより、中国から日本へさまざまな政治の仕組みや文化が流入してくる中で、諱の習慣も日本に取り入れられました。天皇や将軍など、身分の高い人の実名を存命中に呼んだり、家臣が同じ名前を付けることははばかられるようになりました。同名の家臣が別の名前に改名した例もあるようです。
そのいっぽうで、日本では、平安時代の後期から現在に至るまで、先祖代々、特定の漢字が諱として一族に継承される習慣がみられます。これを「通字」、あるいは「系字」といい、通常、漢字二字からなる名前の一字を用います。
たとえば、平安後期から鎌倉時代にかけて勢力を誇った源氏は「義」や「朝」や「頼」、平氏は「盛」や「忠」を通字として名づけに用いました。
通字の習慣は一族内だけにとどまらず、身分の高い人や主君が功績を上げた臣下やその一族への恩恵として、名前の一字を与えることが広く行われていました。これを「一字拝領」といい、名前の一字を授かることはとても名誉なこととされていました。
その場合には、一族で代々名乗っている通字ではないほうの漢字、すなわち偏諱(へんき・かたいみな)を授けることが多かったようですが、姻戚関係となったり、特に重用していた臣下に対しては、一族と同じ通字を与えることもありました。また、主君から与えられた漢字は名前の上の字に使うのが慣わしでした。
室町幕府を開いた足利尊氏は、当時執権として権力を握っていた北条高時から偏諱を受け、高氏(たかうじ)と名乗っていましたが、鎌倉幕府を滅ぼした功績を認められ、後醍醐天皇の諱「尊治」から偏諱を受け尊氏と改名しています。
しかし、足利家は清和源氏の流れをくんでいるため、その後の歴代将軍は「義」の字を通字として継承しています。
戦国大名も織田家は「信」、豊臣家は「秀」、徳川家は「家」や「吉」を通字としています。
織田信長に小姓として仕えていた森成利(森蘭丸)は、信長から「長」の字を与えられて、森長定と名乗りました。
秀吉は、もともと武士階級の出身ではなかったため、代々受け継がれた通字はありませんでしたが、覇権を握ると自分の一族や大名の子息に「秀」の字を授けました。
徳川家康の長男は、織田信長の娘 徳姫と結婚した際に「信」の字を与えられて信康と名乗りました。また、次男の秀康(結城)と三男の秀忠は、豊臣秀吉から「秀」の字を与えられています。
このように、戦国武将たちは、諱の持つ重みを最大限に利用して、一族の結束や主従関係の強化を図っていたのです。
今回紹介した以外にも、各大名家に受け継がれている通字はたくさんありますので、ぜひ年表や系図などで調べてみてください。
さて、1600年に家康が関が原の戦いを征して天下を取ると、諸大名を動員して城の再建や改修を行いました(天下普請)。これは、諸大名の財政を圧迫させて、幕府への抵抗力を削ぐのが目的だったといわれています。
いっぽう、秀吉の息子の秀頼は、秀吉の追善供養として寺社の修復や造営に力を入れました。秀吉が建立して1596年に倒壊した方広寺大仏殿も、家康の進言を受けて再建に取り組みました。
1614年、大仏殿がほぼ完成し、豊臣家による大仏開眼供養が行われる直前、家康は、方広寺の鐘の銘文に「国家安康」「君臣豊楽」と刻まれてあるのを問題視しました。
「国家安康」は征夷大将軍である家康の諱を引き裂いている、また「君臣豊楽」は豊臣が天下人として君臨することを示している、というのです。
この「方広寺鐘銘事件」を口実にして、家康は豊臣方に戦いをしかけ、大阪冬の陣が始まりました。
家康の主張は言いがかりにも近いものですが、諱の扱いが戦の理由になるほどに、大切なものだと考えられていた、ということでしょう。