Vol.16
このコーナーでは、はるこ先生が漢字にまつわるさまざまな話題を皆様にご紹介します。
前回は、ひらがなの手習いとして親しまれてきた「いろは歌」をご紹介しましたが、同じように、昔から漢字の学習に使われてきた漢詩があるのです。
それが「千字文」(せんじもん)です。
千字文とは、中国の梁(りょう)の時代に、武帝(在位502年~549年)が周興嗣(しゅうこうし)に命じて作らせた、文字習得のための教材です。書聖と呼ばれた能書家、王羲之(おうぎし)の筆跡を模写して作られ、書道の手本として広く利用されました。
1000字の異なる漢字を使い、250の4字句からなる韻文で構成されています。
周興嗣はこの千字文を一夜で考え、武帝に献上したときには白髪になっていたという伝説が残されています。
皇帝の命令とはいえ、1000字を一度の重複も無しに組み合わせて漢詩を作るのは、並大抵のことではなかったでしょう。
4世紀以来、百済や新羅からはたくさんの渡来人がやってきました。
『古事記』によると、応神天皇の時代に、百済の文人である王仁(わに、和邇吉師)が「論語」十巻と「千字文」一巻を伝えたとされています。
ところが、応神天皇が在位していたとされる4世紀後半は、千字文の成立時期よりも前なのです。
つまり、現在では、この古事記の記述は歴史的に正しくないというのが定説になっています。
古くから日本に漢字が伝わったことを強調するために挿入された伝説なのか、それとも、周興嗣が作った「千字文」よりも古い千文字の文章が存在し、それが日本に伝わったのか……いずれにしても、この時期に、漢字に精通した渡来人が朝廷で書紀の役目を担うようになり、漢字の文化が日本に浸透していったことは間違いないようです。
天平勝宝8年(756年)の「東大寺献物帳」には、「搨晋右将軍王羲之書巻第五十一真草千字文二百三行」という記述が見られます。
この「真草千字文」は王羲之の書として日本に伝来しましたが、実は王羲之の子孫、智永(ちえい)という僧によって書かれたものだということがわかっています。
智永は長年にわたり王羲之の書法を研究し、永欣寺の閣上に30年間閉じこもって「真草千字文」の臨書(手本をそっくり真似て書くこと)を800本も書いたといわれています。そのうち日本に伝来した「真草千字文」の1本が、世界で唯一、現存する真蹟(その人が実際に書いたと認められる筆跡)なのだそうです。
「真草」というのは楷書体と草書体のことを表しています。千字文は、8世紀には日本でも書道の手本として急速に普及し、広く利用されていたとみられます。
智永の「真草千字文」は書道の手本としても有名ですが、その時代の能書家によって、楷書・行書・草書の三書体による「三体千字文」や、篆書や隷書を加えた「四体千字文」など、さまざまな書体の千字文が書かれています。
さて、智永は当時から書道家として名を馳せており、さまざまな伝説が残されています。
智永が何十年も書道の研究を続けた結果、使い古しの筆が竹製の大籠に5杯もたまってしまいました。そこで、退筆塚を建てて筆を埋め、供養したと伝えられています。
また、智永の書を求めて、毎日たくさんの人が永欣寺に押しかけました。そのため、寺の敷居や扉がすりへってしまい、困った智永は敷居に鉄板を張って補強したという逸話は、「鉄門限」という故事として知られています。
天地玄黃 宇宙洪荒
日月盈昃 辰宿列張
寒來暑往 秋收冬藏
閏餘成歲 律呂調陽
雲騰致雨 露結為霜
金生麗水 玉出崑岡
劍號巨闕 珠稱夜光
果珍李柰 菜重芥薑
海鹹河淡 鱗潛羽翔
龍師火帝 鳥官人皇
始制文字 乃服衣裳
推位讓國 有虞陶唐
弔民伐罪 周發殷湯
坐朝問道 垂拱平章
愛育黎首 臣伏戎羌
遐邇壹體 率賓歸王
鳴鳳在樹 白駒食場
化被草木 賴及萬方
千字文全文はウィキソースをご覧ください。
また、国立国会図書館デジタル化資料では、貴重な千字文の資料が閲覧できます。
⇒国立国会図書館デジタル化資料 - 四體千字文 1卷 1606年(陰刻)