Vol.3
月本雅幸
私が本を好んで読んでいたものですから、小学校低学年のときに、親が中央公論社の『日本の歴史』という当時の大ベストセラーの一冊目を買ってくれたんですね。
今でも文庫版になって出ていると思いますが、当時東大の文学部の日本史の先生だった井上光貞という方の『神話から歴史へ』というタイトルの本でした。そこに魏志倭人伝が全文原文で引用してあったんですね。それを読んで、そこは小学生ですから「漢字だけで書いてある文章があるんだ!」とびっくりしたんです。
中国語であれば漢字だけで書いてあることは当たり前ですが、その頃はまだ日中国交回復のはるか昔で、日本と中国の関係というのも小学生の頭の中にはなかなかのぼってこないような、そういう毎日でしたから、小学生である私にとっては新鮮でした。
で、漢字ばかりの文章があるんだと、その井上先生の本で読み下してある。それはどうも「漢文」というものらしい、ということに至りまして、大胆にも私は漢文の勉強をしてみようと思うようになりました。そこで、親にせがんでですね、高校生用の漢文の参考書を買ってもらいました。それを拾い読みをして、もちろん全部はわからないのですけれども、「ああ、こういうことなのか」と思った記憶があります。
――『日本の歴史』はかなり大人向けの本ですよね。
一般向けの本ですよ。大学生向けですね。
――それを小学校低学年で読まれたのですか。今ですと『まんが日本の歴史』とか読んでいる年頃だと思いますが。
その頃はまだ学習まんが的なものはあんまりありませんでしたね。偉人の伝記とか宇宙の不思議とか理科的なものにはあったように思うのですが。文系のものはあまりなかったのか、あるいは、私は東京の西のはずれに住んでおりましたので、そのへんの田舎の本屋には置いてなかったのかもしれません。
――それで、魏志倭人伝が古訓点を研究されるきっかけになったということでしょうか。
しばらくそんなことは忘れていたんですけれども、大学に入ってまたそういうことを思い出したということなんでしょうかねぇ。それがそれ以降の研究に関係しているような気がしています。
――では、実際に国語学を志すと決められたのは?
そういう基本的な問題はなかなか難しいんですけど(笑)。漠然と大学に入って、言葉に関することをやってみたい、と思っただけなんですね。
東大の場合、一年生に入ったときには(専攻が)大まかな区分でしか分かれておりませんので、一年くらいかけてよく考えましたところ、候補が二つありました。ひとつは文学部の言語学で、もうひとつは、今私が勤めております文学部の国語学ですね。
実は言語学と国語学というところは、根本的には大きな違いがありません。とりわけ日本語を研究するという点においては、何一つ変わりがないと言っていいようなものなんです。ひとえに「言葉」というと、西洋の言葉とかアジアの言葉などいろいろあるわけですけれども、どうしても外国の言葉を研究しようというのであれば、東大の言語学に行くにしても、最終的にはどこかに留学しなければいけないだろう、と私は思いました。
しかし、私は一人息子ですけれども、家庭の事情でとても留学する余裕なんかないだろうと。ならば留学しないで本場の日本でやれる日本語の研究をするのがいいんじゃないかと。
そうすると言語学に行っても国語学に行っても同じなんですけれども、私が学生だったときには、東大の言語学というところは、方言関係に非常に強い、国語学のほうは方言以外のことをやっている、という特徴がありました。最近でもある程度そうなんですけれども。
じゃあどうしようかというときに、私は一昨年亡くなった築島裕という先生の漢文訓読に関する本を東大駒場の図書館で読みまして、「ああ、こういう世界があるのか」と思いました。それで、ひとつやってみようと考えたわけです。
ですから、ほかの方々が抱かれるような大きな志というのは別段持っていなかったというようなことかと思います。
――国語学の専門課程に進まれて、築島先生に教わったのですか?
私が三年生になって本郷の文学部の学生になったときに、築島先生は一年間ヨーロッパに出張されていたんですね。
そのかわりに、三省堂の『大辞林』の編者で小学館の『大辞泉』の編者でもある松村明という先生がいらっしゃって、その方に「あなたはなにをやりたいのですか?」と聞かれたのです。「私は古訓点というものをやってみたいと思います」と申しましたら、「ああ、そうですか。あれは大変ですよ」と。私の記憶では3分間くらいに「大変だ」ということを14回もおっしゃいまして。「まあ、悪いことは言わんからやめておけ」という勧めであったんだろうと思います。
また、大変だということとともに「古訓点の研究は徒弟制度である」ということをさかんにおっしゃいました。それは、松村先生の訓点研究の当時のあり方に対する鋭い批判であったんだろうと、私は思うんです。しかし、そのときに徒弟制度と言ってくださった松村先生のお心に、今は感謝したいと思っています。
ところがですね、手取り足取り教えてもらって「ああせい、こうせい」いうのが徒弟制度だと私は思っていたんですけれども、築島先生についてみますと、そうではないんですね。何一つ教えてくれないんですよ。つまり見様見真似でやってみろという、技を盗めというような、そういうことですね。
築島先生は一昨年85歳で亡くなりましたけれども、最晩年に至ってもですね、私が「先生、私はここ三年くらいこういうふうに考えてみているんですけれども、こういうことってありうることなんでしょうか?」とお尋ねしますと、「あ、それはそうですよ」とおっしゃるのです。ならばもっと早く教えてほしかった(笑)と思うんですけれど、教えないのが築島先生流の徒弟制度であったということなんですね。