Vol.8
シュテファン・カイザー
前回に続き、ドイツ出身の日本語学者シュテファン・カイザー先生のインタビューです。
後編は、日本語を母語としない先生の立場でご覧になった、日本語の文字学、漢字、コミュニケーションツールとしての魅力と課題・問題点についてお伺いしました。
――世界的に見ても日本の文字体系というのは特殊なのでしょうか。
非常に特異的ですね。いろいろ分類方法がありますが、基本的に日本語は分類できていないんですよね。主流は、1文字が対応する言語の単位から分析するものです。一番小さい単位は音素で、音素文字というのはアルファベットなどです。それよりももっと短いものに母音を書かない、子音だけを並べるというアラブ系の言語があります。それは、単位としては音素ですけれど、もっと簡略したものになります。それからだんだん大きくなって、まずはモーラ(拍)になります。日本語の文字はだいたいモーラ文字と言われていますが、それで日本語全部をカバーすることはできないんですね。つまり漢字音だと普通の音節とか、長音みたいに長い音節も入ってくるので、モーラで仕切ることができないんです。それはあくまでもひらがなの世界くらいなんです。漢字の部分とか、それから、場合によっては、訓読みがやたらと長いことがありますよね。中国語みたいなのは綺麗に音節文字ということができるんだけど、日本語はそうは言えないし、音素文字ともいえないし。なんだかよくわからない、ということになってしまうんですよね。
加えて、日本では文字の研究がすごく遅れているんです。特に理論面で非常に遅れているんですね。たとえばチョムスキーの言語学などは、日本でも最新のレベルで研究されているんですが、文字学だけが例外なんですね。歴史的なものはけっこう扱われているんだけれども、理論的なものは(世界的に見て)最も重要な著書がぜんぜん翻訳されていないし、誰も翻訳しようとしない。用語がないと思うんです。(文字学は)かなり高尚な理論が多く、ある意味ではかなりつまらない学問で、非常に記述的になりがちだからです。理論的にやると面白くなるんですね。でもそれが本当に翻訳されていないし、そういうレベルの学問がほとんど扱われてないというのは不思議ですね。
文字学で最新の考え方は、さきほどお話した一番短い単位からだんだん長い単位に、一番長い単位は音節ですけれど、文字のタイプを当てはめるものです。そうした横軸に加えて、今度は縦軸に今までいっしょに扱おうとしてうまくできなかったことをまわすんです。その縦軸はなにかというと、表語性という概念です。表語文字を引っ張りださなくとも、英語でも同じ現象があるなんですね。英語というのは、発音どおりに書かない語彙が多いんですよね。たとえば double / doubt / dough / dour の母音 ou は発音がすべて違っていて、1対1の関係にぜんぜんないんです。そういった意味では日本語の漢字も良く似ているんです。たとえば、「こう」という音声に対して、口、校、高、公、港などが対応する。音声と言語の関係がストレートでないというのを、表語性が高いという位置づけにする。つまり、縦軸ではほぼ一対一で発音どおりに書くというフィンランド語などが上の方に位置する。それに対してエジプト文字とか、中国の文字とかは、英語よりももっと下になって、表語生が高いことになる。横軸では言語の単位の長さでとらえるが、縦軸では文字と言語がどれだけ1対1の関係からはなれているかを表現している。ちなみに、日本語はやはりもっとも表語性の高い部類に入っていて、古代のマヤ文字やシュメール文字などといっしょに表語性が最大だという「名誉」(不名誉?)になります。
漢字研究の話としては、「漢字は表意文字だ」って言われていますよね。「表意文字」という考えは西洋世界では100年前から使ってはいけないとされていて、今ではもう完全に廃れています。つまり文字というのは意味を直接表すものではない、かならず言葉を通して、つまり音声を通して処理されるものだというのが現在の常識なんですね。でも日本では「表意文字」という考えがまだ使われていますよね。
――たしかに、日本ではまだ使われていますね。学校教育でも「漢字は表意文字です」と教えているかもしれません。
――文字は「文字」だということですね。ということは、日本語の研究そのものが、日本においても遅れているということでしょうか。
漢字に関してはそうだと思います。昔から漢字を専門とする人が、日本語の中の漢字の使い方は非常に特殊なので、日本語の特殊なものをどんどん研究していけば、世界に発信できる何か新しい発見が出てくるはずだ、という発想で研究をしているんですけど、そうした成果物が出てきていないんですね。
――日本語の研究というと、方言とか古文の解析とか、女子高生が使っているはやりの話し言葉などがメインになって、日本語全体としての研究は一般には目に付かないですよね。
(研究の)流行というのも多少はあると思うんです。今は方言がすごくはやっていますね。これには、方言がなくならないうちに記録するという目的もちゃんとあるわけなんです。言語でも世界的になくなりつつあるものもあって、方言も同じような扱いですね。「日本語もそのうちなくなるだろう」という人もいます。野村雅昭さん(日本語学者)などが言っていますね。「今のままだと英語に負けてしまうだろう、改善していかないと負けてしまうだろう」と。
あと、日本語についての研究成果を日本語だけで書くと、国内でしか読んでもらえないんです。英語で書けば、理系のように世界的に読んでもらえるという大きなメリットがあるわけなんですよね。
――海外には日本語についての研究成果がほとんどないということですか。
日本語で書かれている論文は、図書館にあっても読む人は非常に限られてしまいますね。一般の人には読めないので、研究者のランク付けでも、日本語で書かれた論文は分析のなかに含まれないんです。その点でも日本語で書かれた研究は、損をしていますね。かといってこの分野では、外国語ができる人が非常に限られているので、英語で論文を書く人は少ない。ちょっとジレンマですね。
――そういった意味でも日本語と英語が並び立ちませんね。