インタビュー

Vol.14

翻訳には賞味期限があるんです――『裏切り者の日々』の裏側(前編)

日暮雅通

2014.02.12

超漢字マガジンインタビュー第8弾(Vol.14)は、本マガジンでエッセイ『裏切り者の日々』を執筆した翻訳家の日暮雅通氏です。
外国語と日本語、著者と読者をつなぐ「翻訳」について、前半は読者層に合わせた言葉選びの工夫や、翻訳業の知られざる苦労についてのお話を伺いました。

サイエンス好きの少年時代


――子供のころはどういった本を読まれていたんでしょうか。

僕は理科少年だったので、小中学生のころは理系の、サイエンス関係のものを選ぶことが多かったですね。最初はあまり小説を読むタイプではなかったんです。もちろん当時は各社が少年少女向け文学全集というのを競って出していた時代だから身近にはありましたが、たくさんは読んでいなかったですね。それがだんだんと、小説の比率が大きくなっていった感じです。

――小説を読むようになってからは、翻訳ものの小説を読むことが多かったんですか。

あのころの少年少女向け文学全集は海外で出た子供向け小説や、大人向けの小説を子供向けにリライトしたものでしたから、翻訳の小説を読む比率は高かったわけです。もちろん、日本にも子供向けの作品を書く優れた作家はいましたが、当時エンターテインメントものを書いていた日本人の作家で、僕が積極的に読みたいと思うようなものは一部のファンタジー的な小説を除いて、あまりなかったですね。海外が舞台のもののほうが好みに合ったということも、あると思います。今の若い人向けライトノベルの興隆などを見ると、選択肢が広がって、いい時代になったなと思います。

――翻訳のお仕事をされるようになってから、お仕事以外の翻訳本はよく読まれるんでしょうか。

自分の趣味としては読みますよ。ただ、職業病というか、翻訳ものに限らず自分以外が書いたものについては、自分がもし同じものを書いたらどうなんだろうと、つい気になってしまいますね。自分の表現が絶対に良いなどとは思いませんが、「この表現はないだろう」とか「これはわかりにくい」とか、思ってしまう。一時期は新聞記事の文章にも突っ込みをいれていたくらい、他人の文章がすごく気になって、すんなり読めない時期もありました。

翻訳ものを読むより、昔の人の名文とか、日本人のうまい文章をたくさん読むほうが翻訳家にとって身になるということはあると思います。若い人向けに読みやすい翻訳をしようとする場合でも、昔の表現が必要ないかというと、漢語表現にしろ昔の言い回しにしろ、身についていればそれだけ表現の幅が広がるわけです。だから古典や明治時代の文章は気になって読むし、時代小説に使われているような表現も、自分の頭の中の引き出しに持っていればアレンジする幅が広がってくるという意味では、読まなければいけないし読んでいます。ただ、仕事がら、日本語の本だけでなく海外の本も読まなくてはならないので、どうしても数の制限はあります。編集者との話の中でも常に新しい本が出てくるし、今どんな本が出ていて次の企画をどうするか考えなければならないので、自然と英語の本を読む比率が高くなってしまって、日本語の本を読む時間がなかなか取れないということはあります。

――それでは、何も考えずに息抜きで読むのはどういった本ですか。

息抜きで読むのは漫画ですね。漫画はかなりの量を読みますよ。気分転換としても読んでいますが、漫画の表現は若い人向けのものも多いし、うまい漫画家のセリフというのは翻訳にとても役に立つんです。映画もそうですが、特に小説の場合、会話の下手な翻訳は目も当てられません。会話文がうまいということは、登場人物の特徴をうまく把握して際立ったキャラクターとして描けているということなので、そういう意味ではうまい漫画家の作品は参考になりますね。

――結局仕事に結びついてますね(笑)。

漫画を読んでいるときは、必ずしも「勉強しよう!」という姿勢じゃないから、あわよくば、というところです。何も気にしないで読んでいて、たまにハッと気づいたときに拾う程度ですよ。

子供向けに翻訳する際の工夫


――日暮さんは、「シャーロック・ホームズ」シリーズを、二つの世代、子供向けと大人向けに翻訳されていますね。

同じホームズものでも、子供向けの場合は、大人向けに翻訳する場合とは違う工夫が必要になるので、手間としては余計にかかります。大人向けと子供向けでは制約も違ってきますから、子供向けにどういう文章にアレンジしたらいいかがある程度わかるまでが、いわば修業の時代で、何年もかかかりました。

修業としては、ほかの人が訳すホームズ作品の下訳というのをやったりしましたが、ホームズ以外で一番最初に子供向けにやった仕事は、SFでした。1984年にアニメにもなった「レンズマン」シリーズの一冊が、自分の名前で子供向けの翻訳をした最初です。そのころすでに大人向けの翻訳の仕事をしていて、別の仕事のツテで依頼がきたんです。それが講談社の「青い鳥文庫」でした。

――子供向けの翻訳では、どのような点を工夫しているのですか。

子供向けの翻訳本には、海外で最初から子供向けに書かれた作品をそのまま翻訳しているものと、もともとは大人向けに書かれていた作品を日本の子供向けに“翻案”しているものがあります。昔はその翻案の度合いが強かったのですが、それには時代的な問題もあります。海外の事情やカタカナ語、作品中に出てくる事物、場所にしろ服装にしろ時代背景にしろ、すべてに関してそれほど子供がなじんでいるわけではなかった。となると、相当リライトをしないと出版社も出しにくいし、読者もそっぽを向いてしまう。そういう時代は、訳者もオリジナルの作家と同じくらいの力量というか工夫を求められました。戦前だけでなく、僕らが小学生のころまで読んでいたホームズものは、ほとんどそうです。それが、20~30年前くらいから事情が変わってきました。子供も海外になじんできて、本来のストーリーやキャラクターを変えてしまうのはまずいんじゃないかということで、忠実な翻訳で、でも噛み砕いた表現で読みやすくするという時代に移行してきました。そのころに僕は児童書の翻訳の仕事を始めたわけですね。だから僕の場合は、先達たちの翻訳とは違って、原作の中身を忠実に再現するタイプの翻訳です。

子供向けに読みやすくするための一番かんたんな方法は、改行を多くすることです。僕が児童書の翻訳を始めたころ、子供向けには2~3行で改行したほうがいいと先輩翻訳家からアドバイスされたことがありました。……今はライトノベルや、大人向けでさえそういう書き方の作家を見受けますが。でも、改行を多くしていくと文章量が2倍、3倍に膨れてしまい、一作品のページ数が子供にとっては多すぎることになり、出せなくなるという矛盾があります。だからある程度は切り貼りというか、直接ストーリーに関係のない背景描写で、それがなくてもストーリーがわかるような部分を削ったり、短くしたり、順番を変えたりということをします。

それから、大人向けでもそうですが、ある単語を抜いてしまうと意味がわからなくなってしまう、という場合があります。たとえば、歴史的な事件の名前がそうですね。当時のイギリス人はよく知っているし、今の日本人でも多少は知っているけれど、子供には無理だろうと。その場合、全部文章で補足できるとはかぎらず、やむなく割注を使うこともあります。割注は子供向けにはあまり入れたくない、でもオリジナルをできるだけ削らずにやりたい……そう思うと子供向けなのに割注が多くなってしまって。これはまずいんじゃないかなと思いましたが、当時の編集者が割とアバウトで、OKしてくれたので、そのままにしました(笑)。小学生には細かすぎるんじゃないかという問題もあるんですが、すべてがわからないと読めないかというと、そうでもなく、うまく読み飛ばしてくれるみたいですね。一つ一つの単語が全部理解できないと先に進めないということはないので、変に端折るよりは全部書いておくほうがいいかなとも思いました。今は子供でもいろいろな方法で調べられるし、全然情報がないと調べるきっかけにもならないから、あえて残しています。

同じホームズ作品で大人向けと子供向けの両方をやると、片方だけでは見えないものが見えてくるような気がしますね。たとえば「赤毛組合」なら「赤毛組合」というひとつの短編を、大人向けに訳すときと子供向けに訳すときとでは、違ってきます。大人向けにも同じ短篇を複数の出版社で何度か訳す機会があり、そのたびに自分の訳も変わってきたのですが、子供向けだとさらに違う要素が入ってくるので、子供向けの作品をやることによって、日本語表現とか漢字の使い方も含めて、いろいろと考えさせられるようになりました。子供向け作品の制約のなかでは、単に事柄を説明すればいいのではなくて、単語や表現を変えていく必要があります。ひとつの原文に対して、今まで考えていたよりももっと幅広く、さまざまな種類の表現ができると、日本語の表現の幅が広がるわけですね。

――子供向けシリーズでは、使用できる漢字の範囲などは指定されるのですか。

僕も最初は、「うち(その出版社)のこのシリーズだったら漢字はここまで使えます」ということがきちんと決まっていると思っていたのですが、実際はそうではないんですね。読者層にしても、たとえば講談社の青い鳥文庫というひとつのシリーズの中で、ある作品は小学生高学年から中学生向けだけれど、ある作品はそれより下の小学生向けというように、まちまちです。同じターゲットの読者層だとしても、本によって漢字をどこまで使ったらいいかというのは変わってくるので、最終的にはその一冊の本として統一をとるという感じですね。

漢字の制限とか、漢字をどういうふうに使うかということについては、大人向けの本についても出版社ごとの漢字使用の統一表のようなものは、特にないみたいです。一般的に、単行本で、しかも理工系じゃない場合は、その都度その都度決める感じです。編集者によっても方針は違うし、作家によっても、ある小説のときは漢字をいっぱい使いたいとか、旧仮名遣いで書きたいという人もいるわけだから、そういうのにも対応しなくてはいけないので、あまり制限できないということはあるでしょうね。ただ、技術系の雑誌の場合は、出版社によってちゃんとリストを作っていたところもありました。はじめて書くライターさんに「こういう表があるから、こういう制限でやってください」と言ったほうが楽ですからね。

――子供向けのホームズ作品は、どのくらいの年代を対象として訳されているのですか。

ホームズとワトスンが出てくる本来のホームズものや、少年少女がホームズと一緒に活躍するような作品は、小学校高学年から中学生くらいが対象になると思います。小学校低学年くらいの年齢層向けには、本来のホームズでなく、動物がホームズ役をするようなものがありますね。中学校くらいからは、今ならだいたいライトノベルのミステリーものでしょうか。ただ、ホームズものの読者の幅はけっこう広いみたいです。

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