「漢字を手放さなかった日本語(後編)」沖森卓也(1)|インタビュー Vol.17|超漢字マガジン 漢字を知り漢字を楽しむサイト
インタビュー

Vol.17

漢字を手放さなかった日本語(後編)

沖森卓也

2014.04.22

超漢字マガジンインタビューは、前回に続き、国語学者の沖森卓也先生です。
後編では、漢字と仮名、漢字のなりたち、日本語と国際化についてお話をお伺いしました。

仮名では書けない漢字音


――漢字と日本人の関わりですが、最初は中国から金印が授けられたときに日本に入ってきて、それから千字文や経典などが流入してくるうちに、漢文訓読の方法が編み出されたということですよね。一方、漢字をもとにした万葉仮名からひらがなやカタカナが生み出されたというのも、日本語としては重要なところだと思うんです。

仮名の成立について言えば、本来は仮名で事足りたはずなんですけどね。韓国がハングルだけで事足りたというのは、逆に訓がなかったからだとも思うんです。日本語が漢字の訓として定着していった。実は「源氏物語」などの仮名文や、当時の女性の消息文、仮名消息にも漢字がちょっと混じるんですよね。つまり、全部ひらがなで書くということはあまり効率的ではなかったんだろうと思われるんです。

なぜ漢字が混じるのかというもう一つの理由は、当時もう字音語(音読みする漢語)が入ってきていたので、字音語が仮名では書きにくかったことがあったんだと思われます。語尾に「ン」がきたり、いわゆる「入声音(にっしょうおん)」といって当時だと「k」「t」「p」のような漢字音、唐の時代の原音が入ってきて、原音に近く発音されると、仮名でどう書いたらいいのか迷ったでしょうね。たとえば、私たちは今、英語で「cat」と聞いたら「キャット」、「cats」は「キャッツ」って書くけど、幕末明治の人は「t」の音をどう書けばいいのか迷ったことだと思われます。仮名で中国語の発音そのままを書くのが難しかったという面はあると思います。

よく言われるのが、「土佐日記」の冒頭、「をとこ(男)もすなる日記というものををんな(女)もしてみんとてするなり」の「日記」は「にき」と仮名が振られたりしているんだけど「ニッキ」と読むんだという説が強いんです。「ニッキ」なんでしょうけど「ッ」の音が書けなかった。漢字音と仮名との関係というのは解決しづらく、便宜的に漢字で書くこともあったので、漢字が手放せなかった。そんなに漢字が混じるんだったらもっと交えてもいいじゃないか、ということにもなってくると(笑)。そういう漢字の訓の問題、漢字の音の問題があります。漢字の音の問題は、もちろん中国語と日本語の問題ですけどね。

――日本語は音だけにもならず訓だけにもならず、入り交じりながら使われてきたと。

日本語って、実はそんなに大きな変化がない言語なんですよね。中国語は大きく変わりました。発音が全然違うんですよ。なぜ違うのかというと、いろんな理由があると思いますけど、中国語は単音節言語ということが大きな理由でしょうね。日本語の場合は「やま」とか「かわ」とか「こころ」とかモーラ(拍)の集合になっています。

「橋」は現代語の日本語では「キョウ」という発音だけど、もともとは「ケウ」っていう発音なんですよね。「ケウ(keu)」という発音は中国の唐に近い時代に使われていたんでしょうけど、今は「チャオ(qiáo)」という発音に変わっているわけですよね。なんで「キ」が「チ」という発音に変わるかというと、「キ」を発音するときに上に息が行くんですよね。これを口蓋化現象というんですが、中国語は「キ」が口蓋化して「チ」に変化していった言語なんです。日本語はそんなに変わらないんです。「キ」が口蓋化しても「キ」のままなんですよね。中国語の場合は単音節のなかで変化していくので、ほかに影響がなくて、それだけで完結してしまうから変わりやすかったんでしょうね。単音節言語だからこそ変化が激しかったと。

逆にいうと、今の例は唐の時代から現代の1200年くらいの間の話ですが、より時代を遡ったらもっと違うんじゃないかということもあるんです。たとえば「止」の音は「シ」ですよね。呉音も漢音も「シ」なんですけど、ひらがな「と」とカタカナ「ト」の字源なんです。「シ」という音があるにもかかわらず、万葉仮名では「と」に用いられているんです。つまり、「止」という字の古い発音はどんなだったかというと、やはり「ト」に非常に近い音だったと考えられるわけです。

「支(き)」も現代の発音では「シ」なんですけど、山偏をつけると岐阜の「岐」で「ギ」、人偏をつけると歌舞伎の「伎」で、「キ」なんですよね。「キ」という音のはずなのに今は「シ」という音に変わっているんです。今言った二つは「古音」といって、呉音よりもさらに古い時代の朝鮮半島で用いられていた漢字音なんですけど、そういったものが日本語の発音のなかに化石的に残っているという一つの例なんです。でもそういう化石的な音も、中国のある時代、紀元前の時代の音だったとも言えるんです。呉音や漢音といっている時代の音よりももっと遡ると、また違う姿があるというのも面白いですね。

――そういう古い音が日本に残っているんですね。

漢字のなりたちと音の関係


そんなことにも興味を持っていたんですけど、『五十音引き漢和辞典』(三省堂、2004年)を作り、常用漢字表が変わったのにあわせて『常用漢字辞典』(三省堂、2013年)を作るときに、漢字のなりたちを入れてみようかと思って入れてみたんですよ。実はこのなりたちというのが非常に面倒で、ある意味あまりやりたくないものの一つだったんです。けれど、やってみるともちろん難しいけど面白い、というところに行き着いたんです。

中国音韻史というか漢字音の歴史を研究する人たちにとっては当たり前のことなのかもしれないけれど、「六書」に「形声(けいせい)」ってありますよね。この「形声文字」というのは、ある音をあらわす要素があって、それがその漢字の音をあらわしているとされています。それはそれでいいんですが、たとえば「寺」という漢字がありますよね。「寺」という字に人偏をつけると「侍(ジ)」と読みますね。では言偏をつけると?

――「詩(シ)」ですね。

牛偏をつけると?

――「特(トク)」。

竹冠をつけると?

――「等(トウ)」。

でも「形声」なんですよ。

――うーん。

どの辞書を見ても形声と書いてあるんです。「ジ」「シ」「トク」「トウ」……だけど、これは本当に形声なの? どういう意味で形声なのか、ということがあまり説明されてないんです。これは中国音韻史の上古音を研究している人にとっては当たり前のことではあるんですけど、「等」という字は後ろ、韻尾「ng」なんですよ。この「ng」と、「特」のように後ろに入声音の「k」が来るのと、「侍」とか「詩」のように後ろに子音が来ないもの、この3つが実はセットになっているという説があって、韻尾に「ng」がくるものが陽類、何も語尾がないものが陰類、それから入声音、これが3点セットなんだというんです。そういう説が上古音にあるというのは前からなんとなく知ってはいたんだけど、ここに至って漢字のなりたちを書いているときに「なるほど間違いないな」と思うようになってきて。だから形声というのはどういう意味で形声と言っているのか、単に「音を借りている」というけれどその「音」ってなんだろうか、ということを考えていかなければ、ということを考えだしたわけです。

――そうすると日本語にとどまらない研究になってきますね。

そこまでいくのはおこがましいので、上古音のほんの入り口を覗くくらいなんですけど。われわれも日本語学で漢字の六書って教えるんですよ。教えているけど、わかりやすい、何の問題もない例だけを使っていて、実はよく見るといろいろ問題がある例もある。これはちょっと説明しておかないといけないだろうと、教えるからには都合のいい例だけじゃなくて都合の悪い例も教える必要があるかな、と思ったわけです。

調べていくと「象形」と「会意」と「指事」というのも実にいい加減だというのもわかってきました。いろんな辞書を見て、こういう説もある、ああいう説もある、と書いてもいいんだけど、それも不親切だから、最終的に何か決めないといけないんですよね。決めるのはいいんだけど、辞書を3つくらい見ると全部違う場合もあるんです。たとえば「丸」という字は、辞書によって「象形」、「形声」、「会意」とある。こんな例はいっぱいあるんです。身近な漢字を集めていって辞書を一つ一つ見ていったら、実にバラエティに富んでいるんです。実は多くの場合は、見方の違いなんですけどね。「象」とか「山」とか「川」とかは解釈の揺れがなく象形ですむんですけど、たとえば「少」という字は、縦の棒の下に斜めの線がくっつくんですよね。この線が付いた全体を「象形」とみるか、線をつけたから意味が加わって「会意」とみるか、というところで変わってくるわけなんです。

「弟」は象形、指事、会意とバラバラになっているものの一つで、『漢字源』では「指事」で「ひものたれたさま+棒ぐい」で、棒の低い所を/印で指し示し、低い位置をあらわす……」。弟の斜めの線が低い位置にあるから「おとうと」だと、抽象的な意味を付け加えたときに「指事」というわけですよね。『漢語林』はどうかというと「象形」であると。「矛ほこ(戈)になめし皮を順序よく、らせん状にまきつけたさまにかたどり、順序・次第の意味を表す……」。形そのものでなめし皮を巻いていったんだとするので象形。『新字源』は「会意」として、「戈になめし皮を下から順にまきつけているさまにより、順序の意を表わす……」。矛になめし皮を巻きつけるところから会意としているようですけど、下から順で「矛と下」というところに意味が合わさっていると見ているんですよね。指事でも良いだろうし、会意でも良いだろうし、全体をこうだと見れば象形。そういう世界なんですよね。自分ではこの場合を指事とはしました。「指事。つるを巻きつけた丫字型の棒の下方に/のしるしを示し、下の方の意を表す……」。抽象的なものを示したものは指事と呼んでいいのかなと思ったので指事にしましたけど、実に悩ましい。(※編集部注:ページ下に掲載の資料も参照してください。)

普通指事を教えるときの例は「一」「二」「三」とかで教えるんですよ。でも「一」も「二」も象形で良いじゃないかと(笑)。指事でいうと「上」のときに、横棒の上にちょんと印があると指事っていうんですよね。考えてみると「上」全体で象形でもいいんですよね。そういうところから見ていくと、いろんなものがあって、でも古来から漢字のなりたちとして六書がある。仮借と転注というのは漢字の使い方になるので、なりたちの問題としては4つを、六書の漢字のなりたちですよとして概論で教えるんだけど、だんだん自信がもてなくなってきますね。いろんな説があるというか見方によって違うだけだということになってしまうと困ったもんだなぁと思っているんですよ。

――何千字何万字という漢字を辞書に入れていくなかで、一字一字、そういった判断をしていった成果がこういった辞書に反映されているんですね。

漢字のなりたちにもいろんな説があることがわかってきていて、今だと白川静さんの説が面白いというのもあって、いろんな人の説を見ていますが、やっぱりわかんないですよね。そこで思いついたんですが、漢字って字形がないと漢字にならないので、まず形がありますよね。でも形だけで字形を判断できるかというと実は難しいところがあるんです。書く字ってその時々に少しずつ違う場合があるし、何に書くかによっても違うんです。その微妙な違いを字源の解釈に用いるのは難しいだろうなと。今でこそ手偏と木偏は違うんだと思っているでしょうけど、古代の文献を見ると手偏も木偏も同じなんですよ。まったく区別がない。ただ、意味によって、文脈によって使い分けるというのが普通で、古い時代の文字というのはそういうものなんですよね。ですから字形だけから判断するのはやめたほうがいいなと思うのが一つと。

字の解釈を考えるときに問題になるのは、音なんですよね。漢字っていうのは中国語が先にあって、それを文字化した、目に見える形に置き換えたわけですよね。もともとあった中国語がどんな形かを考えないで、ただ漢字だけを考えるのはおかしいと思うんですよ。もともとの中国語に漢字をあてたときのあて方を問題にしないといけないのに、字だけ見ていてもしょうがない。なので音が重要なんですよ。発音があって、その発音に漢字を充てる。文字化していくというなかで形声みたいなものが出てくるわけですから。さっきの「侍」「詩」「特」「等」を形声と理解していたのか、それともあるときは同じ音だったのが変化したのか、というふうに考えていかないといけないということです。そうすると、実は形声というのはある程度の許容範囲があった、ということになってくると思うんですよ。

――辞書の研究も、中国語の辞書や漢字字典を見ていかないと音の表記もわからないですね。

中国語の上古音も見ていかなければいけないし、最初は甲骨文字ですから甲骨文字の字体も本当はどうなんだろうか、というのも見ていかなきゃいけない。私の研究のメインではないのですが、趣味として楽しんでやってます(笑)。

――どんどん研究の幅が広がっていきますね。

広がらざるをえないと思いますね。より事実を追求していくと、事実らしい事実を積み上げていくと、どうしてもいろいろなものの関連性が見えてくるので。

参考:「弟」のなりたち

角川新字源 蔵書版(角川書店、1976年)
会意。戈になめし皮を下から順にまきつけているさまにより、順序の意を表わす。借りて「おとうと」の意に用いる。形声字の音符になると、ちいさい(稊)、いたりつく(梯)などの意を示す。
漢字源 改訂第五版(学研教育出版、2011年)
指事。「ひものたれたさま+棒ぐい」で、棒の低い所を/印で指し示し、低い位置をあらわす。兄弟のうち大きい方を兄、背たけの低い方を弟という。また低く穏やかに謙遜する気持ちを弟・悌という。
新漢語林 第二版(大修館書店、2011年)
象形。ほこ(戈)になめし皮を順序よく、らせん状にまきつけたさまにかたどり、順序・次第の意味を表す。また、出生の順序の低い方、おとうとの意味をも表す。
三省堂常用漢字辞典(三省堂、2013年)
指事。つるを巻きつけた丫字型の棒の下方に/のしるしを示し、下の方の意を表す。兄弟のうち、年下の者の意。

(「弟」の漢字のなりたちについて、各辞書より引用)

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