エッセイ

Vol.2

裏切り者の日々(二)

日暮 雅通

2013.06.11

 前回は、日本以外の国(ヨーロッパの非英語圏)でもわれわれと似たような苦労がある、という話をした。英語を自国語に置き換えるという作業をする以上、避けて通れない問題がそれぞれにあるわけだ。

 しかし、日本の訳者にはさらに、カタカナ表記という大きな問題がある。もちろん、ロシアのアルファベットなどは英米語のそれとかなり違うわけだが、英語その他をアジアの言葉に置き換える作業に比べたら、それほどの問題でもないだろう。

 海外作品を日本語にする場合、固有名詞、特に人名・地名はカタカナ表記にせざるを得ない。遠く明治期のように亜米利加、英吉利などと創作する手もあるだろうが、それではAmericaやEnglandが日本語の文章中に入っているのと同じことで、読者は「読む」ことができない。おそらく、ルビを振るということになるだろう。

 ここでまたシャーロック・ホームズ物語をサンプルにすることを、お許しいただきたい。これまで大いに悩まされ、あるいは教えられ、これからも悩まされるであろうネタ元だからだ。

 前回も引き合いに出した〈ボヘミアの醜聞〉に、Irene Adlerという女性が登場する。この短篇にしか出てこない人物だが、ホームズを出し抜く才気煥発な女性で、その後一生涯ホームズは彼女のことを忘れられなかったという存在。ご存知の方も多いだろう。

 彼女のファーストネームをどう表記するかが、日本ではいまだに定まっていない。戦前は「イレーネ」や「アイリイニ」という表記も見られたが、戦後しばらくは「アイリーン」でほぼ落ちついていた。ところが今から30年ほど前、英グラナダ・テレビのシャーロック・ホームズ・シリーズが始まったころから、やはり「アイリーニ」のほうがいいのではないかという意見が出はじめた。本場イギリスの役者たちがそう発音していることを、小説の読者たちも気にしはじめたからだ。

 もともと、Ireneは一般的に英語なら「アイリーニ」、米語なら「アイリーン」と発音されることは、知られている。グラナダ・テレビの作品にかぎらず、名優クリストファー・リーがホームズ作品紹介の番組に出たときも、はっきり「アイリーニ」と発音していた。逆に、アメリカン・フォークの名曲“Goodnight Irene”をご存じの方なら、「アイリーン」と歌われていたことを思いだすだろう。

 だったらホームズ物語なのだからイギリス式に「アイリーニ」にすればいいじゃないか、というのが素直な気持ちだろうが、そう単純にはいかない。彼女はアメリカ・ニュージャージー州生まれの、生粋のアメリカ人だからだ。

 海外の人名・地名を日本の読者向けに表記する場合、二つの問題がある。ひとつは、その単語がどんな発音なのか――つまり、ネイティヴに読んでもらったらどのように聞こえ、どのようなカタカナを当てはめるべきか――ということ。もうひとつは、同じ単語でも国や言語圏によって発音が違うので、どう対処するかという問題だ。

 Ireneの場合は、アメリカ人だから本人は自分の名前を「アイリーン」と発音するだろう。しかし書いたのはイギリス人であるワトスン博士(という設定)なのだから、「アイリーニ」なのか。あるいは登場するイギリス人たちは彼女のことを「アイリーニ」と呼んだのではないか。……単純には決定できないだろう。

 実は目下、このIreneを主人公にしたホームズ・パスティーシュのシリーズを訳しているのだが、そこに登場するIreneの解釈が面白い。イギリス人の友人が「アイリーニ」と呼ぶのを、自分につけたあだ名と言っているのだ。「あなたは“アイリーニ”って呼ぶけど、アメリカ式の発音じゃ“アイリーン”よ」とその友人に言う。「どんなふうに発音されようと、私はかまわないけど、フランス人だと“イレーヌ”になるし、ロシア人なら“イーレイナ”。だから“アイリーニ”って呼んでくれていいのよ」と。

 つまり彼らも会話や朗読では苦労するわけだが、活字の上では、IreneはIrene。フランス語に訳そうとドイツ語に訳そうと、Ireneと書いておけば問題はない。読者は目で追いつつ、勝手に頭の中で変換するだろう。

 しかし、日本語ではそうはいかない。アイリーニなのかアイリーンなのか、イレーヌ、イレーネ、エイレネ。エイレーネー、イレネ……いったいどれにするかで、「お里が知れる」わけであり、その訳者がどれだけ原作を解釈しているかまでわかってしまう。

 名前の話ばかりになってしまったが、紙幅が尽きたので、カタカナ表記の続きは次回に。

この項続く



日暮 雅通(ひぐらし まさみち)

1954年千葉市生まれ。青山学院大学理工学部卒。
英米文芸、ノンフィクション、児童書の翻訳家。日本推理作家協会、日本SF作家クラブ会員。

著書:『シャーロッキアン翻訳家 最初の挨拶』(原書房)。訳書:コナン・ドイル『新訳シャーロック・ホームズ全集』(光文社文庫)、ミエヴィル『都市と都市』(ハヤカワ文庫)ヴァン・ダイン『ベンスン殺人事件』(創元推理文庫)、ラインゴールド『新・思考のための道具』(パーソナルメディア)、マクリン『キャプテン・クック 世紀の大航海者』(東洋書林)など多数。

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