インタビュー

Vol.14

翻訳には賞味期限があるんです――『裏切り者の日々』の裏側(前編)

日暮雅通

言葉選びの工夫


――ホームズ以外にもいろいろなジャンルの作品を翻訳されていますが、ジャンルごとに翻訳の違いはありますか。

ジャンルによって読者が限定できる場合……たとえばコンピュータ系の本だったらだいたい基礎的なレベルの用語は知っているわけで、「モデム」と書いたときにモデムがわかるかわからないかとか、そういう単語単位での違いは、ジャンルごとにありますよね。特にコンピュータ用語の場合は、ノンフィクションの場合、社会科学系の本なのかサイエンス系の本なのかで変わります。また、一般的な読者でしかも普段本を読まない人向けに訳してください、などという場合は、なじみのない言葉に対してはできるだけ説明したり補足したりします。小説にしてもノンフィクションにしても、その作品のジャンルによってというよりは、読者層によって違ってきます。一般読者向けで専門家向けではない場合、新聞雑誌でどのくらい公に認められているか、なじみがあるかという点から判断することが多いですね。ある単語に対してカタカナ語の訳があるとしたら、そのカタカナ語が一般の新聞を読む人にわかるかどうか、新聞でいちいち注が入っているかどうかを確認します。それが難しいのは、たとえば服装の話で、女性は知っているけど男性は知らない、という場合がありますね。ファッション用語の「アウター」とか、ちょっとしたカタカナ語でそんなに特殊ではないんだけれど、女性ならすぐわかるのに中年男性は誤解してしまうような言葉とか。インナー/アウターなんて、僕らが学生のころはよくわからなかったですよね。そういうものが小説にさらっと出てくる場合に、それをいちいち解説するべきなのかは悩むところです。

――昔は使っていても、今は差別的だといって使わなくなった表現もありますよね。

子供向けの訳の制約としては、それはけっこう大きいです。子供の場合、漢字が難しいとか表現が固いとか古いとか、そういう問題と同時に、かなり大きいのが差別表現――ひとくくりにしてはいけないんですが、そういう表現に対する気遣いですね。その面に関しては、各社ともある種のコンセンサスがあります。校正部や編集総務のような部署でチェックを入れてくるんです。そうすると、編集者と校正者の間でのキャッチボールというか、ある種の闘いになったりもします。言葉狩りではないけれども、「これは別に使ってもいいんじゃないか」とか、でも「会社的にはまずい」とか。僕も何社か経験しましたが、温度差はずいぶんあります。社内でも温度差がありますし、会社によっても全然違うという問題もあります。これは出版界だけではなく、もっと大きな問題ですけれどね。

――翻訳するときは、まず本全体に目を通してから訳す方針を立てられるのですか。

理想的にはいったん目を通しておいて、特に統一すべき言葉があればリスト化しておく、ということが必要ですね。時間がないときは訳しながら用語表を作っていき、途中で決まったものは前に戻って直すということをしなければなりませんが。最低限、固有名詞に関しては表にしておかないと、あとで大きな手間になります。

――ミステリーなどは最後に種明かしのロジックがあったりするので、言葉選びの工夫も必要だろうなと思うのですが。

そうですね。まあ、特殊な用語があるかどうかは別として、ひとつの単語に対して、「一番最後のところでこういうふうに訳さなくてはいけない。となると最初に別の訳し方をしてはまずい」という問題がありますから、あらかじめ決めておかないといけません。最後まで読まないと統一できない表現というのは、確かにありますね。実は近々、まさにその点をテーマにした本格ミステリー翻訳集中講義を、ある翻訳学校ですることになっています。

――SFは造語も多いと思いますが、造語を日本語にするときの工夫は。

SF系の小説で、カタカナだけにしてしまうと意味がわからないような場合、意味を無理やり漢字にあてる方法もありますが――まあ、中国語で英語を表現するときに近いでしょうか――それが非常に難しい場合はルビで処理することがあります。漢字何文字かで創作した単語に、カタカナでルビを振る方法ですね。たとえば、一時期流行った「サイバーパンク」というSFのサブジャンルでは、人間の身体にケーブルで情報を入れることを「没入」と書いて「ジャック・イン」とルビを振ったりしました。今でもSFではそういう表現を使う場合が多いですね。それ以外の小説では、できるだけカタカナが多くならないように気をつけています。ひとつの単語をカタカナにしたい場合でも、初回は日本語でルビをつけておいて、2回目以降はルビのカタカナだけにするという方法もあります。IT関係やビジネス関係でも、カタカナにしてしまうほうが楽だし、わからなければそれでいいと突き放すこともできるんですが、できるだけの努力はします。

翻訳の賞味期限


――日本語と外国語を結びつける手段というのがカタカナ語なんですね。

いつも気になるのは、読者にとってどこまでカタカナ語がなじんでいるか、ということです。今まで一回も使われたことのない言葉をいきなりカタカナにしてしまうのはまずいけれども、無理やり日本語にすると、かえってリズムが崩れたり、読者が気持ち悪く感じたりする場合もある。SFに限らず政治用語、経済用語、ビジネス用語もそうですね。ビジネス用語の「コンセンサス」とか心理学用語の「モチベーション」とか、スポーツ用語の「アスリート」とか。最近は使っても大丈夫になったけれど、昔は「アスリート」って言っても「これはすぐには通じないから変えてください」ということになったんです。時代とともに使い方が変わってくるんですね。

翻訳というものには寿命があるというか、翻訳文は腐ることがあると思います。単に表現が古くなるだけではなくて、単語自体もです。昔は子供になじみがなかったけれど、今はなじみがあるからそのままカタカナにしても大丈夫だとか。いろいろな意味で、何十年か単位で表現を変えるべきことはありますね。

――著書(『シャーロッキアン翻訳家 最初の挨拶』)にも書かれていましたが、「翻訳の賞味期限」ですね。

一つは、時代とともに読む人が変わることによって、現在の読者にはチンプンカンプンになったりすることがけっこうあるからです。50年前、60年前、あるいは戦前に訳したもの、特に小説は、だいたい訳し直す必要があります。これは単に読者が新しくなった、時代が変わったという理由です。言葉そのものが、戦前の言葉と今の言葉では違うということもありますし。

それから二つ目は、何十年か前に訳した翻訳家自身が、今考えたらあれは駄目だった、へたくそだった、とか、もっといい訳し方があったはずだ、と思う……そういう自分なりの賞味期限ですね。自分が翻訳したものでも、何年か経つうちに、その作品に対して理解がさらに深まることがあります。また、社会的な移り変わりによって新しくわかったことがあったり、時代が変わって新しい単語になじみが出てきたりという変化もあるでしょう。

ただ、読者の世代はもちろん変わってきますが、昔からの読者もまだいるし、古い作品のほうが自分には合うという若い読者もいるわけで、新訳を出したとしても、旧訳にも価値があるから残すべきだという場合もあります。3000年経ったら無理だろうけれど(笑)、数十年くらいのスパンなら両方とも価値がある。典型的な例で言うと、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の場合、僕自身、前の訳のほうが好きだし、主人公の心情も伝わってきます。ホームズものや『星の王子さま』やシェイクスピアのような古典に関しても、いろいろな人の訳があることによって選択肢が増える、という利点があります。古い訳者、新しい訳者のどちらがいいかという問題だけではなくて、同時代の訳者であっても3人いたら3とおりの訳があるわけですから、それをまた楽しめるという利点もありますね。

――言葉が時代によって変わってくるんですね。

新しい訳に対しては、変えたことでよくなったものと、こういう変え方はないんじゃないか、という気持ちになる場合と両方あります。これは今でも、どんな訳が一番良いのか僕自身わかりません。僕の中でも、時代とともに変わっているし。自分自身、ある時期は今の人たちの言葉遣いや表記法にとても抵抗感があったりしましたが、考えてみれば言葉が変わってくるのはしょうがないことだし、若い人の表現が必ずしも悪いものではないかもしれないと考えるようになりました。

かつての戦前・戦中・戦後、あるいは戦後何十年の間の変遷を考えてみても、言葉は変わっているわけで。一概に変わったからいけないとも言えないし、変わるのがよいとも言えないけれど、変わることは必然だと思います。その中で残しておきたいものもある。たとえば地名をいたずらに仮名にしてしまうとか……漢字なら意味はわかるし雰囲気も残るのに。あるいは、長い言葉を端折ってしまって、あまりにも短く訳した言葉。「半端じゃない」が「パネエ」になってしまうとか。若者は短くしたがるとは、よくいいますけれど……まあ、僕らもやってきたから人のことはいえませんね。ケースバイケースで、土地の名前なのか、あるいは表現なのか、種類によって残しておいたほうがよいもの、なくしてしまうには惜しいというのもあるし、変わってくるのはしょうがないなということも、両方ありますね。

翻訳に注釈は必要?


――ホームズはビクトリア朝が時代背景となっていますが、現在英語で出されている本には注釈が入っていたりするんですか。

注釈つきというのはありますが、少数派だと思います。むしろ注釈つきというのは、イギリスでは珍しいですね。確かに百何十年前のことは同じイギリス人でもわからないわけだから、それに関する注釈がちょっとあったりするんですが、それは数えるほどです。全集の中には、完全に現代人向けにどんどん注釈をつけたり、ホームズ物語特有の単語注釈をつけたりしたものも、いくつかあります。ただ一般的に、ペーパーバック(ソフトカバー)のホームズ・シリーズには、ほとんど注はないですね。日本の文庫や全集では、明治時代の小説にどうしても今の日本人にはわからない言葉が出てきたら、注釈で補いますよね。

――日本語だと明治の文豪が書いたものをそのまま読むのはきついですね。

言葉遣いも違いますしね。それこそ翻訳しないとわからないものもあるし、ものがわからない。もうちょっと時代が下ったら、「竈」といった語はわからなくなるかもしれない。明治時代の事物で今の20代の人たちには無理だろうという言葉には、注が必要ですね。英語文化圏の人はそのまま読んでいることは確かなんですが、でもそのまま読んでいても、わからないことは読み飛ばしているんじゃないかと思います(笑)。

こういうことについては、翻訳を志す人たちでも意外にわかっていなくて、いちいち説明したりしています。翻訳学校に来る人たちでも、英語を正確な日本語にすればいいということくらいの認識しかない人もいるから、翻訳家というのはどういうものかというのを説明することも、けっこうありますね。ましてや一般の人たちには、ほとんど認識してもらえないんだろうなということも感じています。

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