「東アジア100年の歴史がわかる国、台湾――もう一つの漢字圏 台湾の文学(後編)」和泉司×赤松美和子(1)|インタビュー Vol.6|超漢字マガジン 漢字を知り漢字を楽しむサイト
インタビュー

Vol.6

東アジア100年の歴史がわかる国、台湾――もう一つの漢字圏 台湾の文学(後編)

和泉司 × 赤松美和子

2013.05.14

Vol.5に引き続いて、台湾の文学を研究されている新進気鋭の学者、和泉司先生と赤松美和子先生のご登場です。後編では、ご専門の台湾の文学を中心にお話をお伺いしました。

台湾の文学――国策が生み出した創作活動


――台湾の文学と日本の文学との違いで気づかれる点は何かありますか?

赤松:日本の文学というとほとんどが小説ですけれど、台湾の場合には詩とかエッセイとかの分野の作家もかなり多いですね。

――それはさきほど(Vol.5)お話に出てきた「文学キャンプ」のような場所で、そういった作家が作られていくからでしょうか。

赤松:中国語圏の伝統的なものもあるのかもしれません。もちろん小説が一番人気はありますね。私が参加した全国台湾文学営という文学キャンプでは、小説、エッセイ、新詩、戯劇、客家語文学、台湾語文学、原住民文学の7コースありましたが、参加者300人中、小説コースを選んだのは100名でした。一方で、日本では「芥川賞」「直木賞」という小説の賞が一番有名ですが、台湾では詩やエッセイに対してもいろんな賞があって盛り上がっている印象を受けます。

――一般の方も詩を書いたりするのですか。

赤松:日本よりは多いと思います。小説も含め文学そのものが、ただ読むだけではなく読者の多くが創作者でもある日本の俳句とか短歌の世界に近いのかもしれません。

和泉:戦時中の場合は、日本語で書いているので基本的に日本の作家の「模倣」からスタートしていたと思います。日本の文学の市場が大きくなって、作家が怪しい職業から、場合によってはお金持ちになれるしっかりした職業だという見方も出てきた時期なので、有名な作家の真似をするとか、日本で流行していたプロレタリア文学とか、そういったものを取り入れて自分たちも書いてみるとか。エンターテインメントを書いていた人もいますが、今よりもずっと大衆小説に対しての評価が低いので、そういう作品は、僕が見ている範囲では、批評や評価の対象として台湾の人たちに取り上げられないんですよね。台湾では、そもそも日本語が読める人はインテリだけなので、日本語で大衆向けのプロレタリア文学を書いたとしても大衆は読めない。戦時中において差があるとしたら、日本統治以前の漢詩文や文語の世界が生き残っているので、その分野でしょうか。


塩分地帯文芸営(2006年8月)

赤松:台湾に限らず中国語圏全般に言えるのですが、インターネット文学がとても盛んで、そのさきがけになったのが、98年に『第一次的親密接触』を発表した蔡智恒(痞子蔡)という作家です。繁体字と簡体字の差はあるんですが、その小説が漢字で書かれているので、中国でもパソコンを使える人たちの間にどんどん広まって、台湾で出版された翌年に中国でも出版されて人気になったということがあります。これが中国のインターネット文学の流行にも繋がっていったんです。

 もともと50年代の台湾の文学は、反共思想で中国大陸奪還を望むための文学なので、中国全土を対象にして書いていたのだと思いますが、実際の市場としては台湾だけでした。でも、政治的経済的な両岸関係の変化もありますが、98年にインターネット文学が流行して以降は、中国を別の意味で再び市場として考えられるようになっていったと思います。台湾では国家規模で反共思想のための文学教育をずっとしてきたという経緯もあって、創作能力のある人がとても多いんですね。なので、自分のホームページやブログを使って、自分の小説や詩を発表している人も多いです。日本だと小説をひっそりと書いて、わりと自分が小説家だとは名乗らないのですが、台湾では、学者や批評する側の人と創作側の人との距離がすごく近くて、大学の文学部の先生で小説や詩を書いた経験のない先生は、あまりいないんじゃないかと思います。日本だと、早稲田や法政にある文芸創作関係のコースには作家の先生もいらっしゃいますが、研究者側にはあまりいらっしゃらないですね。

――台湾では小説を書きながら、教授になる人も多いのですか?

赤松:多いですね。あと若い頃に書いていて、今は研究をしているという人も多いですし、学歴がほしいという作家も多いです。日本だと「大学中退」がかっこいいみたいなイメージもあって、大学院まで出ている作家はなかなか少ないと思うのですが、台湾では、台湾大学で博士号をとって作家であることがすばらしいと思っている方もいました。

――それはものを書くという行為を、子どものころから教育に取り入れている影響があるのでしょうか。

赤松:私の本にも書いてあるのですが、授業そのもので創作を教えていますし、戦後初期の学校での国語の教科書は古典文学中心でしたが、親たちは日本語で教育を受けた世代ですので、家に中国語の本はありません。そこで、中高生たちにとっての唯一の現代文学の読み物が、救国団(中国青年反共救国団)が発刊していた『幼獅文芸』という雑誌だったみたいです。さらに、各学校や地方にある救国団の分会がそれぞれ機関誌を出しているんですが、学校を通して全員に強制購読させていたため、その機関誌に小説や詩が載ることはとても誇らしいと感じていたみたいです。こんなに多くの文芸雑誌が毎月発刊されるのは、もともとは反共思想の一環として始まったからですが、編集者など直接的に運営している人も、基本的に元文学少女文学少年ですので、いつのまにか反共のためというより文芸創作発表雑誌として利用し、結果として文学のインフラが作られたと考えています。

――日本でもっと創作活動が盛んになるためには、やはり小さい頃からの教育が必要なのでしょうか。日本では夏休みの読書感想文や作文で書くことが嫌いになってしまう子どもたちもいると聞きますが、そういった状態を変えられるヒントみたいなものはあるのでしょうか。


蒋介石を顕彰する中正記念堂

赤松:台湾で文学教育に力をいれるようになった原動力の一つには、反共思想のためということと、国民党が共産党に負けたのは文学、文化教育を重視しなかったからだと、誰かが蒋介石に進言したという話もあります。また、台湾では日本語で統治されたあとに国民党がやってきて中国語を使うようになったので、戦後は中国語教育も兼ねていたり、中国の伝統的な文章を書ける文人はすばらしいという世間的な評価もあると思います。ただ、どんどん民主化していくにつれて、メディアも多元化していきます。インターネットをはじめいろいろな楽しいものもたくさんありますので、文学が衰退しだしているという危機感はあるみたいです。

――国策だったからこそ創作活動が盛んになったということでしょうか。

赤松:そうですね。反共活動が形骸化していっても、学校では「成績が良い人は賢い」とか「足が速い人がかっこいい」というのと同じく、「小説や詩が書ける人はすばらしい」というような価値観が作られていたのです。

和泉:学校でも全員が作品を書いているのですか?

赤松:さきほどお話しましたが、学校を介して強制購読させられている救国団の雑誌に、作品を投稿して掲載されるのは、すばらしいことだという価値観は作られていたと思います。こっそり家で創作をするというよりも、学校を通して創作活動しているように思います。

和泉:日本でも僕の学生時代は、地域で年に2回くらい作文集みたいなものが出ていて、それに出さなくてはいけないから全員作文を書け、ということはありましたね。今思うとあれは何のためにやらされていたのかとは思いますけどね(笑)。戦前は「生活綴方教育」というのがあったのですが、それには、自分の思ったことを書き留めていくことによって自分の考えをまとめさせるとか、標準語を浸透させるという目的があったのだろうと思います。でもそれは、創作とはまたちょっと違いますよね。戦前だと小学生が創作することはあまりないし、中学生で小説を書いているのが学校にばれると停学になりましたから。小説を書くのは不良のすることだったんで。

赤松:日本ではわりと不良のすることでしたよね。

和泉:文学は不良ですよね。西川満(日本生まれ台湾育ちの小説家)も戦前、台北第一中学にいたときに同人誌を出しているんですけれど、ペンネームを使っていました。実際書店においてもらっていたらしいので、周りにはきっとバレバレだったと思いますが、本名で出してしまうと、教師もそれを見逃すことができなくなってしまうので。

赤松:戦後の台湾では、文学は正統なものという扱いですよね。

和泉:もともと東アジアの共通言語である漢文を持っていた国だから、文学的な正統性を維持しなければならないというような面があったのかもしれません。小説を書かせるというのは教員の負担も大きいですよね。長いから全員の分は載せられない、かといって短編小説を書くのもすごく大変だし。だから「書け」といってどのくらいの提出率だったのか気になりますね。僕のときの作文集は全員提出させられていましたけどね。

――違いが見えますね。小説にはある意味思想が反映されるので、台湾では教育の上で、創作を制限するのではなくて創作の中に思想を出すことによって反共教育を行っていたってことですよね。

赤松:そうですね。反共という思想を植えつけるために創作を使っていたんですね。そのひとつの形がキャンプで、エリート青年たちを集めて、夏休みに一カ月くらい泊り込みのいろいろなキャンプを実施しています。パラシュートキャンプとか登山キャンプとかいろいろありますが、そのひとつが文学キャンプなんです。あとは、親の世代は日本語で育っていて、中国語で育った子どもたちは親から日本時代の文化資本を受け継げないので、余計に教育のしがいがあるといえばありますよね。先生や学校の力が大きかったんだと思います。

――では、そこが二世、三世になっていくとまた変わっていくのでしょうね。親も最初から中国語で育っているわけですよね。

赤松:はい。すでに親が中国語で、本省人の場合はおじいさんおばあさんが日本語と台湾語という世代ですから、今後、先生や学校の力の割合はどんどん低くなっていくと予想はできますね。それに、日本文化の受容の仕方も、二世、三世では変わってきます。二世は、親から日本時代のことを伝え聞いたと思いますが、三世になると、90年代以降、日本のドラマ(日劇)が、台湾でも放映され始めますので、おじいさんおばあさんから聞くというより、テレビや翻訳本を通して、日本文化を観て受容しているのではないかと思います。たとえば、先ほどインターネット文学の先駆けとして挙げた痞子蔡が99年に出版した小説集『7-ELEVENの恋』所収の短編小説『雨衣』は、台湾人学生と日本人留学生との淡い恋愛物語なのですが、日本人女性ヒロインの描写で「八重歯」という表現が15回も出てくるんです。これは、日本のアイドルの影響を受けて創造した日本人女性像なんじゃないかと思います。

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