インタビュー

Vol.8

西洋から見た日本語(後編)

シュテファン・カイザー

日本語のコミュニケーションに立ちはだかる漢字の壁


――日本語を母語としない人たちに、日本語を覚えてもらうのはそれだけ難しいこととなると、それはすなわち、日本語を(海外の人との)コミュニケーション言語として使うのは難しい、ということになってしまうんでしょうか。

レベルの問題なんですよね。(日本語を)かじる程度ならいくらでも、ところによっては小学校でもかじるところはあるし、中学、高校でやっているところもたくさんあるし。オーストラリアは一番盛んですよね。アジア以外ではダントツです。でも、高校の終わりまで日本語の勉強を続けても、シラバスを見ていると使える漢字の数は200とかですね。

――200だと小学校の低学年レベルですよね。

アメリカの大学でも、一概にはいえないけれど標準的なところでは、単位を先取りするシステムができているんですね。大学1年生の日本語を高校3年生でやっておけば、そこで単位がもらえるとか大学に入りやすくなるとかいうシステムがあるんです。それで漢字が410でしたかね。3年間勉強しても、漢字はたいした数にならない。大学レベルで見ても、標準的なところでは日本語を自由に読むような段階には至らないんです。それをどう考えるかということですよね。日本語を通して直接日本語を理解するという人がそれだけ少なくなるということが、ひとつの見える結果だと思うんですよね。でも日本語をある程度かじって、マンガを見たりとか日本の文化に興味を持ったりする人はたくさんいる。

――日本としても「クールジャパン」ということで、日本の文化を広めたいという取り組みを考えてはいるわけですけど、日本語というツールが壁を作ってしまっているということになりますね。その問題を打開するにはどうしたらいいのでしょうか。

困難さの一方で、漢字というのは魅力なんですよね。わからないからこその魅力だと思うんですけど。インターネットとかで見ているとタトゥーの漢字だとか、ものすごくサイトがあるんですよね。そこで母語話者に意味を聞きたいというやりとりもたくさんあるし、車につけるステッカーの漢字とかも買えるんですね。車の性能を表す英単語から検索できるようになっていて、気に入ったやつを買えるんですけど。僕が気に入ったのは「fast」(速い)という英語に対して、どういう漢字かと思ったら「屁」(注:「屁」は英語で「fart」)と書いてあって(笑)。それを知らないで購入して、自分の車に貼っちゃった人がどれだけいたのかと思うと、だまされた人がちょっと気の毒で……。でも、そういう漢字の魅力というのがいっぽうにはあるわけですよね。母語話者にとっては、わりと当たり前で特別な漢字ではないものが多いけれど、彼らには読めない漢字が魅力だったりするわけです。わからないからこそ面白い、面白そうとか、形が複雑で変化に富んでいるとか。漢字には、そういうすごくポジティブな側面と、実際に学習して、ただのツールとして考えた場合の効率の悪さがあるんです。

サミュエル・マーティン(元イェール大学教授、日本語学者)が言っていましたが、「漢字というのはぜいたく品なのか必需品なのか」。答えはぜいたく品なんですね。なくてもやっていけるはずで、使おうとするといろんなところで不経済で、入力の努力を考えるとすごく大変なんですよね。特に固有名詞、人の名前なんかは、かな漢字変換でなかなか出てこない。結局、変換候補を分けて一つ一つ入力しないといけなかったりするし。昔、楚さんという中国の学生がいたんだけど、いちいち「四面楚歌」って入力して名前を書いていたって。そんなバカなっていう話なんですけどね。

――「そ」と入力して、「そ」の音の漢字候補の中から探すよりは、「四面楚歌」と入力して「楚」以外を消すほうが速かったわけですね。

実用面からいうと、経済効果としてどこまで計算できるかわからないけれども、母語話者にとっても、相当遅くなってしまうと思うんですよね。経済効果を重視するかどうかですよね。漢字は、ぜいたく性、あるいは遊び性、特に文学では、スタイリスティックデバイスとして使っているわけで。そういう両側面を持っているので非常に難しいですよね。日本人にとっては、漢字はプラスイメージのほうが強いんじゃないですかね。

――プラスに思っているからこそ、今まで特に変えようとしてこなかったんではないでしょうか。

ちょうど戦前や戦後すぐなどは漢字をなくそうというはっきりとした方向性があったんだけど、それを文学の人が革命を起こしちゃったんで。……まあ、これはなかなかね。戦前は新聞社もタイプをそろえてなくてはならない時代だったので、経済的な問題だったんですね。活字をあまりたくさん抱えていると大変だとか。なので新聞社もけっこう積極的だったし、国語審議会の中で学校制度をもっとシンプルにするという発想から、漢字はなくしてしまったほうがいい。ただ、研究としてはローマ字にするのがいいのかひらがなにするのがいいのか、どっちがいいのか研究して決めるという方針ははっきりしていたんですけどね。それはそれでその時代には合っていたのかもしれないけど、それが戦後になってみんな豊かになってくると、まず無理ということでしょう。そんな意識もないし、漢字廃止なんて政治家が言い出したら大変でしょう。聖なる漢字を触るなと。

ドイツでスペリングの改革をしようとして、一応実施したんですけど、今はほとんどもとに戻しちゃったんです。それだけ抵抗が強いですね。見慣れたものが急に変わると「なんだこれは」と。人間は危機的な時期だったら不可能ではないけれども、平和な世の中でいきなり漢字を捨ててひらがなだけにするとなれば、国民がそろって叫びだすと思うんですよね。

――日本人は漢字がより多く読めることがステイタスに結びつく意識があると思うんで、漢字をやめてしまうのは難しいでしょうね。

表現の自由が束縛されるというのは、言葉と文字の混同だと思うんですけど。でも漢字を使ってるところでは、言葉と文字の混同が起こってくるわけですよね。それがアルファベットみたいな文字を使っているところでは全然問題にならないんですよね。言葉と文字を混同するということはまずありえない。

――文字はアルファベットの26文字ですね。

漢字を使っている人の思考形態も違うんじゃないかと言う人もいるんですね。それは残念ながら証明もできないし、測定もなかなかできないけれども、でもそれだけ漢字を何年も書いたり練習したりとかしていたら、なにか脳の中が変わってくるような気がしますよね。

――シナプスが別のところにつながるような。

そうですね。面白い研究があったんですけど、グラフィックデザインとかいろんな手法で、漢字を何度も繰り返し書くというのは、記憶にどういう効果を与えるのかというもので、あとで認識と算出の両方のテストでどれくらい覚えているのかをテストしたわけなんですけど、答えは非常にはっきりしていましたね。何度も書くということで、何が身に付くかというと、何も身に付かない。ひとつだけ「何度も書く」。つまり運動神経の効果は記憶にある。手で覚えるということですね。しかし、発音しながら書くとか、意味を考えながら書くとか、そういうことはふだんしませんので、ただただ写しているだけというのは、ただ写すのが上手になる。それだけ。

――運動神経ですね。

そうなんです。漢字教育で何度も書かせるんであれば、せめて発音のテープを聴きながら、自分で発音しながらとか、意味を考えながら書くとかという方法をとらないと、あまり効果がないんですよね。最近面白い雑誌ができて、『社会言語学』(http://www.geocities.co.jp/HeartLand/2816/)というんですけれども、そこがマイノリティについていろいろ、特に文字との関係について考えるということをやっているんですね。そこの著者の中には自分の名前もひらがなで書くとかっていう人もいるんだけれども、そこの主張というのは、要するに漢字というのは差別道具だと。外国人ももちろんそうだけれども、日本国内でもたとえば目があまりよく見えないとか、老人もそうでしょうけれども弱視の人とか、差別されていると。情報アクセスということとも重なるけれども差別につながるということが意識され始めているんですね。そこで漢字が問題というね。不平等的な要素が増えていけば、そういう論調もまたなにか楔になるかもしれませんね。漢字が自由に使えるというのは、日本の中でも特殊じゃないかと思うんだけど。文筆業に関わっている方たちとか、教師とか、要するに普段文章をたくさん扱っている人であれば、わりと不自由なく使えるけれど、一般の国民ではどうか。そういえば、この前調査をやっていましたね。成人力(※)。

――大人の力、ですか。

これはOECD(経済協力開発機構)がいつもの学力調査と同じようなやり方で、日本国内では国立教育政策研究所が実施してたんですけれども、そのOECDの結果は10月に公表予定になると。やったことは成人の生活力。年齢もランダムに選んで、読解力、数的思考力、ITを活用した問題解決能力の3つの項目なんですけど、それが実生活の中であるような課題を遂行させて、その成績がどうだったかという。その結果ってけっこう面白いと思うんですね。大学に通っていない人や、大学をでてからずいぶんたつような人がどの程度の問題を抱えているのか、抱えていないのか、ということが国際的に比較できるというものなので。

――それは楽しみですね。10月の発表に注目します。この調査は今回が初めてでしょうか。

初めてですね。PISA(OECD生徒の学習到達度調査)も前から調査をしていてランダムにサンプルをとっていますけれど。もちろん参加を強制できないので、自信がない人は拒否したりする、という可能性はありますけどね。

※国際成人力調査(PIAAC) http://www.nier.go.jp/04_kenkyu_annai/div03-shogai-piaac-pamph.html

外からの視点で日本語を見つめなおす


――今興味を持っていらっしゃることや、これから研究されたいテーマはありますか。

どうですかね……まったく新しいというのはなかなかないけれども。今、ここでラテン語を教えているんです。ただ、ラテン語のためのラテン語ではなくて、日本語学のなかの外国語課程として教えていて、ラテン語で書かれた日本語に関する文献を読んでいるんです。

――それはいつの時代のものでしょうか。

ポルトガル人が天草で作った、16世紀末頃のラテン語の文典の中に、日本語の書き込みがあって、日本語の説明が書いてあったりするんです。それで、ラテン語を実際に学生に教えていて、そうした中で16世紀の人たちが日本語をどう見ていたのかというのが意識されるわけですよね。それがなかなか面白いんです。ラテン語の枠組みで日本語を捉えようとするとどうなるのか、という部分がね。そこがもう全然違う場合があるんですね。たとえば形容詞がそうなんですね。ラテン語の形容詞は名詞とあまりかわらないんです。変化の仕方とかが名詞とそっくりなんですね。そうするとラテン語の伝統的な品詞分類では形容詞というのがないんですね。ラテン語の場合は名詞の中に含まれるという分類なんですね。その枠組みを日本語に持ってくると、形容詞が全然あわないわけですね。日本語の場合は全然名詞的なところがないわけです。むしろ動詞に近い。そういうような問題を彼らがどう扱ったのか、ということとかね、ラテン語のほうから見えてくる問題意識ですかね。

――私などは、日本語の観点でしか見られないので、外から見える日本語というのは非常に興味深いテーマですね。

学生から、卒論について相談を持ちかけられたんですが、「翻訳をやりたい」というんですね。翻訳をやってそれぞれの言語の特性を比較したいと。それだったら、たとえば、文学で敬語を英語に翻訳するとどういうふうに翻訳しているのか、逆に敬語が存在しない英語での会話の中で、翻訳者の日本人がどういうふうに判断して敬語を入れるのか、もともとないものをどう入れるのか、そういう点を比べると面白いんじゃないかな、というふうに話をしたんです。

――海外のものを日本語にするのはある程度は想像がつきますが、逆はどうなるんでしょうね。源氏物語だと二重敬語が使われていたり……。

真似できないですよね。敬語というのはいろいろな側面を持っているわけですよね。そのひとつはフォーマル性だけれども、逆に言うと、敬語がないところでは相手との親近の度合いを表さないといけないので、それをどういうふうに真似するのか。英語にするときにはどういう言い回しにするのか……。それもそういう(外国語と日本語の関係性の)テーマですよね。

――最後に一言、日本語をふだん使っている読者に向けてメッセージをお願いします。

日本語の表記というのはいろいろ言われているように、非常に複雑すぎることや、自分がうまく漢字を思い出せないことが恥ずかしいと思う人がたくさんいたりするんですね。そういう考えや風潮は、かなり行き過ぎたものだと思うんです。どの言語でもスペリングが思い出せないという現象はあって、漢字に限ったものではないので、恥ずかしいと思う必要はなんです。それから、知識人の方で日本語表記において訓読みは漢字で書かない、ということを主張して実施されている人たちがいるんです。そもそも訓読みというのは日本語の表記を必要以上に複雑にしてしまっているし、それなりに余計な問題を生んでしまってもいるんです。つまり「かたい」と書くときに「固」と「堅」とどちらで書くべきか、とかね。でもこれは、中国語の区別であって日本語の区別ではないので、本末転倒なんです。これを漢和辞典で逐一調べているものは、中国語の使い分けであって、日本語ではない。日本語の表記に憂慮を持っている人にできることは、訓読語は全部ひらがなにすることくらいしかないのかもしれないですね。ただし、やる気があるのかないのか、それをどこまでやるのか、自分の名前や地名までもか、というのは個人によってかなり温度差が出てくるとは思うんですよね。

やはり明治、大正の人たちがそうであったように、少し外の目から日本語の表記を見直してみてほしいです。なんとなく使っているのであまり意識はしないと思うんだけど、ちょっと考え直して、漢字がどれだけ大変なのか、特に外国人の立場に立ってどれだけ大変なのか、ということを認識してもらいたいです。それから、日本語を愛するのであれば、語源のようなものを漢字が壊していることも認識してほしいですね。たとえば、「急ぐ」と「忙しい」は語源上関係しているのだけども、漢字が違うのでまったく別語みたいになってしまっている。漢字が、日本語、すなわち和語の語彙体系を崩しているという部分がけっこうあるんです。「水(みず)」と「海(うみ)」が「湖(みずうみ)」になっているのだけれども、まったく別の漢字を書いてしまうとか。いろいろところでそういうことがあるんですね。ですから、日本語というものを真に愛するのであれば、もう少し日本語らしい、和語らしい発想と言い方を意識してほしいなと思います。私は漢語にそれほど美しい印象は持たない、むしろ和語のほうが美しいと考えるけれども、日本人も本来はそう考えるべきではないかと、そのように思います。

――日本語について、改めていろいろ考えさせられますし、考えてみたいと思います。本日はありがとうございました。


シュテファン・カイザー(カイザー シュテファン KAISER,Stefan)

國學院大學文学部教授。

ドイツ連邦共和国ダルムシュタット出身。 専門は日本語学、日本語教育学。
これまでの研究テーマとして、西洋人日本語学史、横浜ピジン、文字学、漢字と漢字教育など。
著書に、Japanese: A Comprehensive Grammar (Comprehensive Grammars), Routledge, 2012(共著)、「文字学の世界 ―文字の分類を中心に―」砂川有里子他編著『日本語教育研究への招待』くろしお出版, 2010、「諸外国の言語政策と日本の言語政策 ―正書法改革における日独の事例―」早田輝洋編『朝倉日本語講座1 世界の中の日本語』朝倉書店, 2005 など。

あとがき

シュテファン・カイザー先生インタビュー「西洋から見た日本語」は、いかがでしたか?

独学で日本語を学ばれ使いこなされているカイザー先生が、そのお立場からお話された内容や視点は新鮮なもので、日本語を母語としている者としては、改めて日本語や漢字について、内的にどうするか、外的(母語者以外)にどうしたらいいのかを、結論はありませんが、考えさせられました。読者の皆さんも、ほとんどが日本語を母語とされている方だと思います。ぜひ、日本語に対してさまざまな側面から関心をもっていただければと思います。

それでは、次回超漢字マガジンインタビューをお楽しみに!

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