Vol.5
和泉司 × 赤松美和子
――その後何度も台湾に行かれていると思いますが、台湾の印象が変わったりしたことはありますか。
和泉:研究上で変化を感じたのは、2000年の夏でした。2000年の3月に政権交代があって、かなり急激に台湾化というか、台湾ナショナリズムが進んでいきました。当時は今と違って景気が良かったせいもあって、みんな盛り上がっている感があったんです。「台湾はこれからすごいんだぞ」、「独立しちゃうんじゃないか」っていうのもあったし、研究上も自由になんでもできるようにもなりましたし。
あとはインフラや街の整備が進みましたね。これは聞いた話ですが、それ以前は、建前として中国国民党政権はやがて大陸に帰るつもりで、街のインフラがすごくいい加減だったというんです。実際、線路も駅舎も日本統治時代のものをそのまま使っているし、地下鉄はいつまでたってもできないし……という状況だったのが、一気に街が整備されましたね。僕が留学していた街も、当時は、古い街とかはボロボロだったのが、数年前に行ったときには観光地化しなきゃいけないというので全部綺麗に作り直していたんです。そういうところにお金を使うようになったんだなって、すごくびっくりしました。
赤松:私は2回留学しているのですが、最初に語学留学で4カ月すごしたときには、ただ台湾を傍観する立場でした。次に研究者として2004年から2005年にかけて留学したときには、いろんな作家や文学編集者にインタビューしましたので、「人によってこんなにも見方が変わるのか!」と感じましたね。
最初に訪れたときは、和泉さんがおっしゃったようにどんどん民主化が進んでいっているときでしたので、台湾独立の考えをもつ人や日本が好きという人とばかり話していたんですけれども、二度目の留学のときには、国民党側だった人たちが「昔は国が文学に対していろいろ援助してくれたのに、最近はしてくれなくなった」という話をされたり、ちょうど終戦から60周年だったんですけれども、インタビューした作家が、国民党側の御用作家といわれた人で「明日から北京の抗日のイベントに行くんですよ」という話をされたりしたんです。台湾の移り変わりの中で、作家たちの身分がこんなにも変わっていくんだ、いろんな人々の立場と政治が非常に密接なんだな、ということを何度も行くにしたがって感じられるようになりました。
――いろいろな立場の方とお話をされていらっしゃるんですね。特に印象に残っているエピソードなどはありますか。
赤松:国民党側だった作家の方は、たぶん国からお金をもらって作家として生活していて、それが、民進党(民主進歩党)政権になってからあまりお金が回ってこなくなったせいだとは思うんですが、「日本では作家をもっと国で保護しているのに、それに比べて台湾の新政府はけしからん!」というような誤解がありました。当たり前の基準というのはこんなにも違うんだと感じましたね。
――和泉先生はいかがですか?
和泉:僕は赤松さんとちょっと違って、歴史的な部分や植民地時代とかにも興味を持っていたので、自分としてはある程度の予備知識を持って、台湾に行ったつもりだったんです。その中に、台湾では、大陸から来た人が「外省人」、もともと台湾にいた人が「本省人」と呼ばれているという知識があったんです。はじめて留学したとき、留学先の学校にいた日本人が自分が借りていたアパートを僕に引き継いでくれたんですが、そこは台湾人とのルームシェアだったんです。で、最初の挨拶のときに知ったかぶりで「あなたは本省人ですか?」って聞いてみたら、その人は絶対に「本省人」だとは言わないんですよ。「台湾人だ」って言うんです。そこが台南という南部の街で特に台湾人意識が強い街だったというのもあったんですけれども、そのとき「台湾の人はもう本省人なんて表現は使わないんだなぁ」と思って、それ以降は台湾の人に対しては本省人という言葉を使えなくなってしまいました。僕の書いた本の中でも本省人という言葉は使わないようにしているんです。ただ「本省人」を使わないで「台湾人」と言ってしまうと「台湾にはいろいろなエスニックグループがいるから」みたいなことも言われることがあるので困ったりもするんですがね。でも、あのときに「台湾人だ」といわれたのが強く印象に残っていますね。
台湾北部の街、九份からの眺め
あとは台風ですね。台北に滞在したとき、一度すごい台風が来て外に出られなくなってしまったことがあります。お店も全部閉まっているんですね。営業していたコンビニも食べ物が届かないのでものがない状況でした。台風の翌日外に出てみたら、かなり太い並木が根こそぎ倒れていてびっくりしました。僕が住んでいた台南の街では、住んでいる人たちが「ここは台湾で一番古い街だから神様が守ってくれるから台風が直撃しないんだ」と言っていたんです。台湾では台風が来ると、政府が自動的に学校と会社を全部休業って決めちゃうんですね。実際留学しているときに大きい台風で休業になったことが数回あるんですけど、その街では一回も雨がひどかったことがないんですよ。でも、台北では神様が守っていてくれなかったので、すごい台風が来てしまいました(笑)。
赤松:私はお天気で困ったことはそんなにないですね。台風のときは引きこもっていたので。
――南のほうの台風はたしかに凄そうですね。おもに夏場に滞在されていらっしゃったんですか?
和泉:僕は中長期滞在を3回していて。2000年に3カ月、2001年から2002年にかけて1年間、あと2004年に1カ月半くらいですね。2004年のときは夏ですが、その前は1年いたので、季節はひととおり体験しましたね。
――そういえば、台北の冬は意外と寒くて、沖縄より南に位置するのにダウンを着ていると聞きましたけれど。
赤松:寒いですよね。コートは着ますね。
和泉:まあまあ寒いですね。でも、コートと言ってもダウンジャケットだと暑いです。日本文化の影響だと思うんですけど、テレビを見ているとセブンイレブンのおでんのCMをやるんですが、ふわふわの毛皮のコートみたいなのを着てハフハフしておでんを食べているんです。こんなに寒くないよねぇ、と思って。変だな、何のイメージなんだろうと。ドラマでもダウンコートを着ている人とかたくさん出てくるけど、ダウンなんていつ着るんだよと思いながら見ていました。これはかわいいから着たいんだろうな、と思っていますが。
赤松:ファッションですね。
――ダウンの話は、ファッションでということだったのですね。日本のものといえば、台湾でもヒートテックが売れているとか。
赤松:それはおしゃれなんですかね。
――どうなんでしょう。お二人が留学されていた頃はまだユニクロはなかったかもしれませんね。(※ユニクロ台湾は、2010年10月に台北市の「統一阪急百貨」にオープン)
赤松:当時は無印良品がありましたね。
和泉:台北の店にはユニクロを個人輸入で仕入れている店があってすごく高いという噂を聞いていました。
――たしかにどちらも日本よりも高そうですね。
赤松:無印も日本より高かったですね。ブランド戦略でしょうね。
和泉:台湾で人気のあるブランドだと、
赤松:
和泉:NETなんてどうみてもGAPですよね。紺地に「NET」って書いてあって。そういう店がユニクロみたいな値段で簡単に着られる服を置いていたので、つい最近までその頃に買った下着とかを普通に着ていましたよ。今も部屋着にしているセーターとかを「これどこで買ったんだっけ」って見てみるとHANG TENって書いてあって「これ台湾のだった」と。もう10年以上前に買ったものなんですが。
赤松:物持ちいいですね(笑)。
――台湾の食べ物はいかがでしょう。
阿妹茶酒館(阿妹茶樓)
赤松:私はあまりチャレンジングに現地のものを積極的に食べてはいないのですけれども、小籠包とかフルーツとか、一般的においしそうなものをたくさんいただいていました。
和泉:僕はだいぶ変わりましたよ。もともと偏食で全然ものが食べられなかったんですね。97年に最初に台湾に行ったときも、一番はじめに入った店がすごく汚くて、出てきたものも味がするのかしないのかわからないようなものばかりで、もう台湾のものは食べられないと思って、2週間いたうち10日以上はマクドナルドで食べていましたね。移動して街に着いたらまずマクドナルドを探して。友達はみんなほかの店に入って食べているのに、マクドナルドまで30分くらい歩いて買いに行ったりもしました。
赤松:それじゃぁ、留学時代はどうしていたんですか?
和泉:留学時代はさすがに街の食べ物も食べようと思って食べたら、若干舌も変わってきていたのか、台湾料理もこんなに旨かったんだと思って。それからは外の屋台で適当に食べることが多かったですね。僕は語学留学だったので、南部の街だと日本人の留学生でも、もともと台湾に縁があって食べ物も良く知っている人が多かったので、一人では気持ち悪くて食べなさそうなものも、みんなで一緒だと食べちゃうんです。おかげですっかり慣れましたね。
赤松:そういえば私も文学キャンプで毎日同じような味のものを4日くらい食べることができるように成長させていただきました。
和泉:文学キャンプのときの食事は僕もすごい苦痛でしたよ。誰も知り合いがいないし。
赤松:文学キャンプのときにスタッフが連れ出して鍋をごちそうしてくれたのですが、そのときの鍋が美味しかったですね。火鍋。そこから、結構、火鍋好きです。
和泉:僕がいたころは鍋はそこまでブームじゃなかったかな。そういえば真ん中に大極旗みたいな仕切りで分かれてる鍋を食べに一回くらいは行ったな。
赤松:火鍋は今では日本でも食べられるようになりましたね。和泉さんはお茶はどうですか?
和泉:お茶は一時期ハマって茶器をそろえたりしましたね。茶器セットを買ってきて日本で飲んだりもしました。台北のガイドブックやメディアにも出てきた日本語の上手な人がいるお茶屋さんがいて、台湾に行くたびにそこに行ったので顔を覚えられて、よく話もしていたんですが、たまたま僕の日本語教育のクラスに留学していた人がそのお茶屋さんの孫娘だってことがわかってからは、向こうの人は、知り合いや教師を盛大に迎えてくれるので、恥ずかしくて行けなくなってしまって。もう4、5年行ってないですね。
赤松:向こうの人はサービス精神旺盛ですよね。
――日本人だということで、サービスしてもらったりしたこともあったんですか。
和泉:台北だと日本人が多いのであまりそういうことはないと思います。赤松さんが本に書かれている文学キャンプに参加したときの話ですが、すごい山奥のキャンプに行って街を見学して歩いたときに、若い人が集まって歩くのですごい騒がしくしていたら、古い家からおじいちゃんが出てきて「うるさい!」と言って怒ったんです。僕は、台湾語だったので全然わからなかったんですが。そうしたら学生が「この人日本人だよ~」って言った瞬間におじいさんの顔がはっと変わって「日本から来たんですか?!」というふうに急に敬語になって。みんな先に行っちゃっているのに僕だけ一人でずっと話をさせられてしまって。そういうところだと、日本人が珍しいので日本人がくるとうれしいという人はいますね。そのときは、お茶でも出されそうな勢いだったので逃げましたけど。そんな山の中でひとりはぐれたら帰れませんから。
――台湾で一番人気があるスポーツはどれなんでしょうか。野球のイメージがありますが。
和泉:学生が一番好きだったのは、バスケットボールでしたね。バスケットボールは、一時期プロもあったんですけどあっというまにつぶれてしまいました。野球も何回か観に行きましたけれど、ガラガラでしたね。毎年チームが削減しているし。僕が滞在していたとき、彼らが観ていたスポーツはNBAでした。スポーツ番組も輸入しているのでテレビ中継を観ているんですよね。
――どちらかというと、スポーツは自分でやるよりも、テレビを観て盛り上がっているんですか?
和泉:単純に人口規模の問題だと思いますけどね。台湾は、九州くらいの広さですから、何チームも展開できないと思いますし。あとは社会的な……向こうは利権とかが強くて、そのせいで八百長問題が起こったりすると、そのたびにチーム削減や取り潰しがあったりしているせいがあるんじゃないでしょうか。
赤松:スポーツは盛んじゃないですよね。
――フィギュアスケートにもたまに台湾の選手が出てきますけど、アメリカ出身だったり拠点がアメリカだったりしますよね。
赤松:選手自身も台湾だけでなんとかしようとは思ってないですよね。海外へ留学する人もとても多いですし。