Vol.7
シュテファン・カイザー
――日本人からすると他国語を覚えるのに壁がある人が多いと思うのですが、覚えるコツというのはあるのでしょうか。
覚えるコツはまず近場の言葉を覚えることですね。やはり覚えやすいわけです。
――文化的に関係があったところの言語とかですか。
ええ。あるいは言語のタイプが似ているものをですね。日本人だったらまずは韓国語でしょう。
――文法的にも近いですね。
近いですよね。綺麗に並べることができるくらい順序が同じですし。そういう言語で自信をつけてから、もう少し難しい言語に手をつける、というのがいいと思うんです。いきなり英語っていうのはすごくたいへんだと思うんですよ。日本語と英語には、どこも似ているところがなくて、ギャップが非常に大きいですからね。
――先生は何カ国語もお使いになられますが、やはりドイツに近い言葉から覚えられたのでしょうか。
今はもう変わっているかもしれませんが、ギムナジウムは9年(注:当時)ですが、最初から毎日ラテン語の授業がありました。3年くらいたつと古典ギリシャ語を毎日。英語は途中で選択制で1年、フランス語も1年。ラテン語などに重点が置かれていました。日本で言えば漢文ですよね。漢文を通して中国の思想を理解する。それと同じように、ギリシャとかラテン語圏とかを理解する。言語そのものが目的ではなくて、文化を理解するための基盤みたいなものだったんですね。
――理解するためのツールとして教えているわけですね。
――ところで、先生の論文の中で「横浜ダイアレクト」というピジン語の研究がありますね。日本におけるピジン語は日本人の中でも存在を知る人が少ないと思う言葉ですが、ここに目をつけられたのは、なにがきっかけだったんでしょうか。
実は、ロンドン大学のSOASにいたダニエルズという人が昔「横浜ダイアレクト」について書いた論文があるんです。その論文は語彙だけを取り上げていて、どこからきた語彙なのかという点を分析をしていて、そんなに面白いものでもなかったし、ピジンとしてはあまり扱っていなかったので、知識としてだけしか頭になかったんです。
そのだいぶ後になって、ある出版社から「西洋人の日本語再発見」みたいなタイトルの8冊本の企画(※)が出て、やってくれないかと。8冊分といっても内容は複製なんです。幕末明治のころの西洋人が日本語を再発見したという。つまり、ロドリゲスたちポルトガル人が16世紀に日本語を発見し、記述したんだけど、その知識がその後失われてしまって、ヨーロッパでも名前は知られているけど内容はほぼ失われていた時代があったんですね。その後18世紀に再発見されるんですけど、こちらの再発見はほとんど別個で、西洋人が開国後に日本に入ってきて、外交官と商売人と宣教師の3つのグループに分かれるんです。シリーズに含める複製の対象は、SOASにある本だけでよいのではないかという話で、イントロダクションみたいなものを書けということになったので、その著書を全部読んでみて、それで横浜ダイアレクトに気がついて、その小冊子も大学の図書館にあったので、これは面白いのでシリーズに含めようと。そうやって初めて詳しく見たわけなんですね。それ以降けっこう研究していて、今は「第一人者」だという人もいるくらいで、なんだかよくわからないんですけど(笑)。
※ Stefan Kaiser (ed.,), The Western rediscovery of the Japanese language, Curzon Press, 1995
――横浜ダイアレクトについては、日本でもほとんど資料がありませんよね。
多少はあるんですね。たとえば日本語で書かれた横浜の案内書とかにも多少は出てくるんですね。たとえばこういう例があるんですよね。「アナタ ヤスイ。ワタクシ カウ。アナタ タカイ。ワタクシ ペケペケ」(『横浜繁盛記』幕末頃)。条件文なんですね。だけど何も文法的な要素がついていない。面白おかしいでしょ。一時は冗談じゃないかと思われていたらしいですね。あるアメリカ人がちょっとした冊子を作って、それを横浜で回覧していたのが、当時けっこう人気があって、いくつも版を重ねていたんです。スペリングに特長があって、「お寺」が「Oh terror」という英語のスペルに置き換えられていて、というかみんなそれでやっているわけなので、冗談に見えちゃうんだけども。
当時書評もイギリスの雑誌に載っていて、中国のピジンを研究した人なんだけど、その人の書評によると、冗談のようにうまく見せかけているけれども、当時としては、ピジンというのは触れてはいけない、不真面目な言語なので、言語学として扱うのはとんでもない、という風潮があったようですね。正確な日本語を使う人たちは「これは最悪の言葉だ」と、すごく印象が悪いものだったので、なかなかそれに手をつける人が当時はいなかったわけなんですね。
でもいろんな表現の仕方が面白くて、「乳母車」が「ベビサン バシャ(Baby san bashaw)」とか、「地震」は「オオキイ アブナイ ポンポン(Okee abooneye pon pon)」とか。
――面白いと思ったのは「ハイケン(High kin)」という、本来であれば「拝見」という敬語の謙譲の言葉なんですが、お互いにそれを使っていて、敬意を表す意味がなくなって「見る」という単語として使われているんですよね。
そうなんですよね。日本人もそういうふうに西洋人におつきあいして、合わせて会話しているんですね。日本人もちゃんと「ワタクシ(Watarkshee)」とか言っているわけなんですね。
――居留地の中のコミュニケーションのツールとしては実用的だったわけですね。
ええ、そうなんですよね。最初は東海道沿いに居留地を用意するという予定だったんですが、それを横浜に変えてしまったので、外交官はオカンムリだったんだけど、商人はおかまいなしに幕府が用意した住居に入っていきなり商売を始めるわけですね。そうした中から自然に生まれちゃったんですね。だから、(横浜ダイアレクトを)外交官は嫌がったんですよね。日本語のピジンとしては唯一の例なので、日本語がピジン化するとこうなるんだという面白い事例ですよね。
――鎖国に入る前のポルトガル人や、出島でのオランダ商人とのやりとりでは、ピジン的なものは発見されてないのでしょうか。
発見されてないですし、たぶんなかったんじゃないかな。長崎の場合はポルトガル語がひとつのリンガ・フランカ(共通の母語を持たない人同士の意思疎通に使われている言語)だったみたいだし、日本人も通詞(つうじ)がいて、オランダにはもちろんオランダ通詞がいて、オランダ人には日本語の学習を禁じるという状況だったので、システムのようなものができていたんですね。横浜の場合はそれがぜんぜんなくて。日本人も英語ができないわけですよ。オランダ語はできるけれども英語はできない。だから、イギリス大使館では、最初は日本とのやりとりにオランダ語を使っていたんですね。文章とかも全部オランダ語。それを正式なものにするには、オランダ語から英語に翻訳して国に送り返すという。
――先生の論文に「日本語はあまり難しくない上、日本人は外国語を覚えるのが得意ではないため、ピジン英語ではなく、ピジン日本語ができた」という言葉が書かれていたのですが。
(「日本語は簡単に習得できる」というジャーディン・マジソン商会会長の)ケズウイックですね。これはSOASを作ったときに政府が委員会を作って、「果たして日本語と中国語というのは現地以外でも学習できるのか?」ということを、何年もまじめに議論していたんですね。その議事録が残っていて、その中にこの発言が出ているんです。その結果SOASができたんですね。このケズウイックという人が、横浜ダイアレクトの第一号だったんですね。彼が開国と同じ日くらいに日本にやってきて、すでに香港や上海では商売をしていて、日本で支社を作るということをはじめたんですね。ですから、彼がまさしく自分でそれを実践していたんですね。だからその立場から言っているんですが、聞いている人たちは「それは正式な日本語じゃないでしょう?」と(笑)。
――ただ、やはりツールとしては正式な言語ではなくてもコミュニケーションがとれ、覚えられるものだ、ということなんですよね。ケズウイックに言わせると。
そうなんですよね。最初の4~5年くらいは幅を利かせていたと思うんですね。だんだん正確な日本語を覚える外国人が増えるにつれて、「あれはなんだ?」ということになったと思うんですよ。
――日本人から見ると、日本語を覚えるのは大変なんじゃないかと思っていたんですけど、意外ですね。
でも日本語をしゃべれる人はいくらでもいるわけですよね。ですからそんなにピックアップするのに難しい言語ではないんですよね。やはり文字ですね、問題は。壁になるのは文字ですね。