インタビュー

Vol.7

西洋から見た日本語(前編)

シュテファン・カイザー

外国語学習の壁


――先生からみて、日本人が逆に外国語、特に欧米の言語を覚えるときにはどんな壁があると思われますか。

やはり、あまりしゃべらない、というのが大きいんじゃないですかね。教え方も同じだと思うんですけど、クラスであまりしゃべらせないし、しゃべらせようとしてもなかなかしゃべってくれない、というところが問題なんじゃないですかね。要するに、しゃべれるようになるには、しゃべる以外にないので、いくら読んでいてもだめなんですね。理解が上手でもだめだし、いくら上手に文章がかけても、しゃべれないので、やはりしゃべるためにはしゃべらなければならないと。それがどちらかというと日本の場合は、書き言葉中心の考え方が昔からあって、今でも変わってないんですよね。正式なものは書き言葉的なフォーマル性のあるもの、くだけたものはどちらかというとバイアスが入っている感じですよね。学部生を日本で教える場合と、西洋で教える場合とでは、参加の仕方がぜんぜん違うんですね。西洋では押さえきれないくらい、みんなしゃべりたがる。質問するとみんな手を上げるんですが、日本だと「シーン」と。でもあててみるとそれなりに考えを持っているし、しゃべるんだけど、自主的にはしゃべらないですね。

――機会を与えないとしゃべらない。

ええ。そのへんもフォーマル性のひとつの側面かもしれませんね。教室というそれなりにフォーマルな場面は、友達としゃべるというようなものではないので、そこで自由に何でも言ってみようということはなかなか出てこないですね。

――学校のそういう場面がフォーマルなものなので、フリーに質問したりする雰囲気にならないということですね。そうすると、学校そのもの、授業そのもののあり方の問題になってきますね。

いや、もっと大きいんじゃないですかね。社会そのもののあり方だと思います。ニュースを見ていても、なんでこんなに硬くなきゃいけないのかな、って。スポーツニュースになると急にうれしくなるのかラフな感じになりますけど。硬いですよね。

――日本人はなかなかフォーマルな場所で積極性が出せないというところが、言語にしても普段の態度にしても、影響しているということですね。学校でも、元気のいい子が「せんせい!せんせい!」と質問しても、先生は授業を進めるほうを優先してしまって、その場でなかなか聞いてもらえなかったりとか……そういうところで積極性の機会がなくなってしまって、おとなしくなってしまうのかもしれませんね。

受験の世界なので、授業が遅れそうになると親も怒ってくるし、そういった社会のシステムがね。

――自由な発想というよりは、みなで同じことをやれる協調性が重視されがちなのかなと。

そういうのはこれから変えていかないと、なかなかやっていけないと思うんですよね。海外にどんどん出せばいいかもしれないですね。

――海外へ行ってそこで友達をつくって、どんどん交流してしゃべることで言葉を覚えるのがいいとはよく聞きますが。

難しいこともありますけどね。オーストラリアで教えていたときに交換留学生が入ってくるんですね。1年生として。それで、まったくゼロの人たちと日本語ができる人たちは別のクラスにしたりしたんですけど、悪い癖がついていて、高校生同士の話し方は流暢にできるけれども、フォーマルな場での話し方はぜんぜんできないし、それがなかなか直せない、という問題もあるので、それは日本人が海外に行っても、高校生のレベルだったら同じことかな。フォーマルな場で人前できちんと話をすることはできないかな。それはどう教えるのか、という発想がないとだめでしょうね。

――オーストラリアでは日本語を教えていらっしゃったんですか。

そうです。オーストラリアでは当時は経済学部のなかに日本語の授業があったんですね。

――実用としての日本語授業ということですね。

だからかえってよかったですね。文学部の縛りがなくて。文学を教えなくてはならないというのがぜんぜんなくて、日本語だけを身につければよかったので。

――経済活動するために使えるように、ということですね。オーストラリアで日本語を教育するときに何がたいへんでしたか?

オーストラリアでは意外と問題は少なかったですね。ひとつは、かなり現地の学校教育でも日本語を教えていたので、何年か日本語を勉強した人たちが入ってくるパターンが多かったですね。オーストラリア時代の弟子たちは、ときどき一緒に飲んだりするんだけど、けっこうな数が日本にいて、日本で仕事してるんですよ。経済と日本語の組み合わせだし、それなりに通用しているんですね。ただ、たぶん書かせれば……読ませても……どこまでできるかな。そこまでは無理でしょうね。

――では、授業は日本語の会話がメインということですね。

そうです。聞き取りもできるし、会話もできるけれど。話すことについては、かなり流暢だと思うんですね。仕事の上でも機能できるような……。

――最近はパソコンの機械翻訳も進化しているので、ある程度話し言葉がわかれば、読んで自然な日本語の文章を作るのも難しくなくなってきてるのではないですか。

どこまでできてるのかな……。ある人が面白いことを言ってたんですけど、「機械翻訳できるような日本語というのは自然な日本語ではなくて、翻訳しやすい文章を書けば機械もちゃんと翻訳してくれるので、だんだんそういう文章を書くようになる」という(笑)。

――そういえば、逆はやったことがあります。英語にしやすいような日本語を入力してしまいますね。

コピーライトの問題がなければ、技術的には電子テキストさえあれば、いろんな形で読めるわけなんですよね。翻訳まで行かなくても、対訳の単語リストを作ってくれるソフトもあるし、漢字の読み方も示されるし、だからそういうものであれば、なんとかなるのだけれども、やはりコピーライトの問題で、なかなか進化しない……海外では、図書館とかもデジタル化がどんどん進んでいるわけなんですが、コピーライトさえなければ、古い本がデジタル化されているので文字も大きくしたり小さくしたりとか、音声で読ませたりとか、技術的にはいろんなことができるはずなんだけれども、コピーライトの問題があるので、先に進まないですよね。障碍者ならば特別にソフトとかをつけてもらうことができるんですが。外国人も漢字に関しては「障碍者」なんです。だけど、そういう扱いは残念ながら受けてないんです。

――音声になればその書物が読めることになるわけですよね。

日本も法律としては情報アクセス権というのができているんですよね。本当は日本にいる全ての人が平等に情報にアクセスできる権利を持っているはずなんです。でも、実際はぜんぜんそうではなくて。

――日本語の文字が読めなくても日本語がわかる人にとっては、音声化は良いツールですよね。

さっきも学生と話をしていたんですが、日本にいる外国人の女性、日本人と結婚していても良いし、あるいは外国人と結婚していてもいいんだけれども、子どもが生まれたらだいたい日本人が通う小学校に入るんですよね。そうすると学校からいろんな情報が文字で配られて子どもが持ち帰るんだけれども、それをお母さんが読めない。まったく読めないという。いかに文字の壁が大きいかということなんですよね。日本に住んでいて、日本語をけっこうしゃべれていても読めないという……。

――日本語は文字にすでに壁があるのに、ひとつの漢字にいろんな読みがある特徴があるとなおさら壁が高いですよね。

複雑ですよね、非常に。日本人だってこなせないくらい。どこかに書いてあった数字ですけど、学校で12年間漢字を勉強しても、小学校の教育漢字1006字を、読みでは80パーセント、書きでは60パーセントしかできないんです。小学校の漢字ですよ。それを高校生になってもその程度しか読んだり書いたりできない。12年ってけっこう無駄が多いですよね。

――欧米では言語の基本的な部分は小学校の低学年で終了しているのに、日本人はそのままずっと高校まで覚え続けなくてはならない、というのは、日本人が日本人に対して課しているハンディキャップになっているんでしょうか。

やはり漢字に充てられている時間は、ほかのところに回せるので、文章力とか発言とか。漢字の学習に時間を充てるというのは……。

――日本語を学ぶ上で難しいのは、同音異義語が多かったりするところかな、と思うんですが。

どうなんですかね。そういわれたりしますよね。でも実際はコンテクストがあればほとんど問題にならないわけなんです。

――文脈がわからないと理解ができないということですか。

もちろんもちろん。でもそれは実際の言語使用のなかではほとんどありえないんですよね。文脈がないというのは。多少同じ文脈で出てくるものとかはありますよね。「私立」(わたくしりつ)と「市立」(しりつ/いちりつ)とか、それはもう解決済みなんですよね。「化学」(ばけがく)と「科学」(かがく)と同じように。

――言い換えによって区別できると。

ええ。言語は非常に実践的で、使用に耐えられないものはそれなりに解決されるものなんですよね。それ以外だったらほとんど問題にならないんですよね。たまにニュースで聞きなれない言葉はありますけど、それはどの言語でも、耳慣れないものや、はじめて聞いたときにわからないものには簡単な説明が必要になってくる。

――特別なことではないんですね。

だと思うんですよ。だからよく言うんですよね。「こうしょう」という言葉が広辞苑に50近くあるとかね。だから日本語はローマ字で表記できないとか、ひらがなだけで表記できないとか言うんだけども、まずその50の中で実際に使われているものをみると、たぶん5、6個しかない。あとはどこかの専門的な分野の文章に埋まっているだけで、普通の人はまず見ない。で、その5、6個というのはコンテクストがあれば区別できるものだと。

――先生のお話をうかがっていると、日本語は言葉としての難しさというより、表記としての難しさが一番だということですね。

それは非常にはっきりしていますね。もったいない話だと思うんですよ。世界中で日本語を勉強している人が非常にたくさんいるんだけれども、きちんとこなせるようになる人は本当にわずかなんですね。学問さえやっていればいいという、僕らみたいに時間のある暇人とかね(笑)。それやはり実用的に使いたいけれど、使うには不便が大きすぎるというのが実情なんですよね。たぶん何百人の生徒を教えていても、一人も一人前にすべてをこなせる人はいないでしょう。ましてや普通のスピードで読むというのは、まずありません。せっかく日本語を習っている人たちがそれだけいるのに、途中で終わってしまう。もったいないですよね。そのうち、コンピュータチップを脳に埋め込んでね、その問題が解決される時代も来るんでしょうけど(笑)。

――もし漢字に全部ルビが振られていれば少しは変わってくるんでしょうか。

そうでしょうね。仮名はそんなに簡単ではないけれども、それは覚えられないものではないし、モチベーション的にも持つと思うんですよね。ターゲットが限られているわけだから。漢字だといくらでもあるわけなので、1945字とか2136字とか言われると限定的なターゲットに見えるけど、それは膨大な数だし、それだけですべて読めるわけにいかないし、やっぱり3000字くらいは必要だろうとかね。3000ってすごい数なんですよ。子どものうちだったら、知らないうちに毎日少しずつ覚えていくのはあまり抵抗は無いと思うんですけど、成人になって同じように覚えるというのは、ほとんど不可能ですよね。大学で4年とかやっていてもそれは無理なんですよね。

――そうですよね。ましてや漢字だけをひたすら覚えている時間というのはかなりもったいないものがありますよね。

そうなんですよね。たしかに、何らかの形で併記するというのが現実的なんですかね。

――では、先生が日本語で苦労されたことはなんでしょうか。

やっぱり……文字ですよね(笑)。

――それにつきますか。

それにつきますよね。研究に関してはハンデがありますよね。ハンデがあるときにはどうするか。それは、ハンデのないものを見つけることなんですね。現代語の文法の研究で多いのは、これはいえるのかいえないのか、という文法性の判断に基づいてテストするものなのですが、そういうのはできませんね。いくらやっても母語話者のようにはならないんですね。母語話者でも判断が分かれることはあるけれども、外国人だとまず無理ですね。ですから大学院で何をやったかというと、古典。古典を研究テーマに選んだんです。そうするとハンデがないんですね。むしろ「これはこうだろう」と現代語から考えてしまう日本人のほうにハンデがあって、こっちはそういう先入観がないですからね。あとはやっぱり誰もやっていないテーマを見つける。「横浜ダイアレクト」とかですね。

それからもうひとつは、文字学というテーマで漢字に関してもいろいろ書いていました。日本国内ではあまり理論面ではアップデートされていない状況なので、日本国内で発表するぶんには第一線でいけるんですね。そのほか、ラウトレッジ社というイギリスの出版社が出している文法書のシリーズのJapanese: A Comprehensive Grammar (※)を4人で書いているんです。これも筆頭著者が非母語話者だという問題があるわけですが、その問題をどうしたかというと、この本は全部実例なんです。実例を探して、その実例を使って文法のグループ分けをするんですね。そのデータだけで扱う。最初から文法ありきではなく、それを並べてどのように分類できるのかをそれぞれ記述する。そうするとハンデはない。いくつかのそういう解決法はあります。

※ Stefan Kaiser, Yasuko Ichikawa, Noriko Kobayashi, Hilofumi Yamamoto, Japanese: A Comprehensive Grammar 2nd Edition (Series: Routledge Comprehensive Grammars), Routledge, 2012

――解決法を見つけながら研究されるだけ、日本語に魅力があるということですか。

まあ、一応それで飯を食っているんで(笑)。

<前編終わり>


シュテファン・カイザー(カイザー シュテファン KAISER,Stefan)

國學院大學文学部教授。

ドイツ連邦共和国ダルムシュタット出身。 専門は日本語学、日本語教育学。
これまでの研究テーマとして、西洋人日本語学史、横浜ピジン、文字学、漢字と漢字教育など。
著書に、Japanese: A Comprehensive Grammar (Comprehensive Grammars), Routledge, 2012(共著)、「文字学の世界 ―文字の分類を中心に―」砂川有里子他編著『日本語教育研究への招待』くろしお出版, 2010、「諸外国の言語政策と日本の言語政策 ―正書法改革における日独の事例―」早田輝洋編『朝倉日本語講座1 世界の中の日本語』朝倉書店, 2005 など。

あとがき

 いかがでしたか? 日本語を母語とされない先生の視点は興味深く、ついつい日本人の立場で思い込んでいた部分の錯覚や間違いに気づかされる点が多かったです。

 次回のカイザー先生インタビュー後編では、日本語の文字体系や漢字を中心としてお話をお伺いします。お楽しみに。

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