インタビュー

Vol.15

翻訳には賞味期限があるんです――『裏切り者の日々』の裏側(後編)

日暮雅通

翻訳の未来


――これから翻訳というのはどういうふうに動いていくと思われますか。

ひとつは、英語に対するなじみや教育によって読者が変わってくることに対応しなくてはいけない。時代、教育、人、文化が変わってくる。時代の変遷と教育の変遷で問題になるのは、日本人が全員英語ができるようになったら翻訳家は要らないのだろうかということです。そういう変遷に対応していくという問題と、まったく別に、かつてからずっと言われている、機械翻訳が出てきて翻訳家が要らなくなるのではないかという問題。この二つの問題というのは、ここ何十年ずっと言われてきました。翻訳家の業界で集まって話すときにも、そういうことを心配する人がいるんですよ。あるいは若い人が「これから翻訳家という職業は成り立つんでしょうか」と。

実際問題としては、ビジネス文書などの単純な翻訳、ビジネスレター、契約書、マニュアル、そういうものに関しては、高度な翻訳ソフトでかなり対応できるようになってきていると思うんですよ。昔はシソーラスをたくさん学習させることによって、たとえば医学だったら医学用語や言い回しををいっぱい入れていけば、かなりクオリティが高くなっていました。でも小説だけじゃなくて、ノンフィクションも含めて、人間が書いた普通の文章というのは、まだまだ難しそうだと思います。「もう10年もたてば」と10年ごとにずーっと言われて、もう30年くらい経ちましたけれど、まだそれは難しいんじゃないかなという気がします。もちろん、ソフトウェアや人工的なものというのは、翻訳する上での手助けにもなるし、時間短縮とかになります。人工知能的なものにどんどんデータを加えていって、それをもとに訳せば早くなるとかね。でも最終的な言い回しや会話は、翻訳家によってその人が設定した人物像がみんな違うわけですよね。同じホームズとワトソンの会話にしても、翻訳家によってみんな違うんです。それは、現段階では10年後の翻訳ソフトではたぶん無理だろうと。翻訳ソフトに人格が入っていけば違うかもしれないですがね。本当の人工知能として。

それから、日本人が英語がわかるようになったらどうかということについて、もうひとつ。今でもかなり原書を読める人が増えてきていますし、僕らが翻訳した原書を読者が同時に読んでいます。だからといって翻訳家が要らないかというと、原書を読んで中身を知るだけではなくて、日本語として表現したらどういうふうになるかという、この問題は翻訳家がいなければだめです。翻訳もひとつの作品ですから、翻訳家それぞれによって違う作品ができるわけです。今まで言ってきた二つの問題に関して、そんなにすぐには、ドラスティックには変わらないんじゃないかなという気がします。やっぱり翻訳は腐るし、賞味期限があるし、時代の変遷、読者の変遷にあわせて僕らも変わっていかなければいけないですよね。

――最後に読者に向けて一言お願いします。

この本と今回のエッセイで、だいぶ翻訳家の苦悩は吐き出した気がします。こういう話をする機会も少ないですし。普通の人に翻訳家というのはどういう商売だ?とか、何をやっているのか?とか聞かれても、表面的な説明しかできませんから、どういう事情で翻訳をしているのか、普通の著者とも違うし、苦労だけじゃないけど、こういう特徴があります、ということをちょっとでも理解してもらえると、うれしいですね。翻訳家事情というか、ハザマにいる人間、橋渡しの人間がどういうことをしているか。普段、翻訳された作品を読んでいてもあまり考えないことかもしれないけれど、翻訳家によって違うんですよ、あるいは裏事情があるんですよ、ということを少しでもわかってもらえると、いいなと思います。

――それは翻訳書を読むという新たな楽しみにも繋がりますね。

そうですね。でもおかしな突っ込みは困ります(笑)。翻訳家の立場になったことがないと、変な突っ込みをするんですよ。「原書を読んだけどこれは違うんじゃないか」とか。違うのは当たり前で、違うカルチャーで違う時代のものを訳しているんだから、そのままの和訳になるわけはないんですよね。翻訳の事情をある程度知れば、読者としても、そういう読み方が変わってくるんじゃないかなと思いますね。

――ありがとうございました。

日暮雅通氏が手がけた翻訳作品

ハワード・ラインゴールド 著
『新・思考のための道具 知性を拡張するためのテクノロジー――その歴史と未来』

新・思考のための道具

 「人間の思考過程を支援する道具」という斬新な切り口で、コンピュータ革命を夢みた多くの人物に迫り、コンピュータ史を鮮やかに描きだした歴史的名著が新訳・増補版でよみがえる。現在に至るコンピュータ史を理解するための必読書。
(2006年、定価 本体2000円+税)

Amazon
パーソナルメディア書籍サイト ※ 各種電子書籍版もあります。

スコット・マッカートニー 著
『エニアック 世界最初のコンピュータ開発秘話』

エニアック

 今、明らかにされる世界最初のコンピュータ「エニアック」の誕生秘話。
「ノイマン、お前だけは許せない!」真の開発者エッカートとモークリーを襲った悲劇の連続。
世界最初のコンピュータ開発のすべての名誉を独り占めしたノイマン。 二人はその陰ですべてを失っていく。現代を動かすコンピュータの開発の裏にあったのは、 まるで映画のような、渦巻く人間ドラマだった――。
(2001年、定価 本体1900円+税)

Amazon
パーソナルメディア書籍サイト ※ 各種電子書籍版もあります。

ピーター・ドレーリ、サヴォイ・ホテル 編著
『サヴォイ・カクテルブック The Savoy Cocktail Book』

サヴォイ・カクテルブック

 バーテンダーのバイブルであり、カクテルブックの原典。時代を超えて愛されてきた名門ホテルのレシピ877種を掲載。
伝説の名バーテンダー、ハリー・クラドックが1930年にまとめた『The Savoy Cocktail Book』をイラストやコメントなどすべてそのままに復刻し、現ヘッド・バーテンダーのピーター・ドレーリらによる新レシピを巻頭に加えたミレニアム版。巻末には日本語索引を追加。
(2002年、定価 本体2800円+税)

Amazon
パーソナルメディア書籍サイト

アントン・エイデルマン 著
『サヴォイでお茶を taking tea at the Savoy』

サヴォイでお茶を

 紅茶の国からやってきた。おいしいお菓子でティータイム。
世界的に有名な料理人であり、サヴォイの総料理長を務めたアントン・エイデルマン氏が、紅茶の話やサヴォイ・ホテルのアフタヌーンティーとそのレシピを紹介。英国式ティータイムとエレガンスを味わう本。
(2002年、定価 本体1900円+税)

Amazon
パーソナルメディア書籍サイト

アントン・エイデルマン 著、安達 眞弓 共訳
『ザ・サヴォイ・クックブック THE SAVOY COOKBOOK』

ザ・サヴォイ・クックブック

 世界中のセレブに愛されるザ・サヴォイ・ホテル、ダイニングの真髄。21年間サヴォイで総料理長を務めたアントン・エイデルマンの集大成。
サヴォイにおけるブレクファストからディナーまでの数々のレシピに、サヴォイ・ホテルのさまざまなエピソードが彩りを添える。サヴォイで過ごす極上のひとときをお手元に。
(2004年、定価 本体4800円+税)

Amazon
パーソナルメディア書籍サイト


日暮 雅通(ひぐらし まさみち)

1954年千葉市生まれ。青山学院大学理工学部卒。

英米文芸、ノンフィクション、児童書の翻訳家。日本推理作家協会、日本SF作家クラブ会員。
著書:『シャーロッキアン翻訳家 最初の挨拶』(原書房)。訳書:コナン・ドイル『新訳シャーロック・ホームズ全集』(光文社文庫)、ミエヴィル『都市と都市』(ハヤカワ文庫)、マリア・コニコヴァ『シャーロック・ホームズの思考術』(早川書房)、ヴァン・ダイン『ベンスン殺人事件』(創元推理文庫)、マッカートニー『エニアック』(パーソナルメディア)、ラインゴールド『新・思考のための道具』(同)、マクリン『キャプテン・クック 世紀の大航海者』(東洋書林)など多数。

あとがき

いかがでしたか? 翻訳(バージョン)を選ぶ、翻訳自体をも楽しんで読むという新しい翻訳書の楽しみ方・読み方に気づかされました。さっそくなにか翻訳書を選んで読んでみたいと思います。
読者のみなさんには、インタビューとあわせて、ぜひエッセイ『裏切り者の日々』も読み返していただければ、また新しい翻訳の世界とその事情を味わっていただけると思います。

次回の超漢字マガジンインタビューは、日本語学者の沖森卓也先生です。お楽しみに!

▲PAGE TOP